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宝寿院祐円

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宝寿院 祐円(ほうじゅいん ゆうえん、明暦2年〈1656年〉 - 元禄10年2月25日〈1697年3月17日〉)は、江戸時代前期から中期にかけての祇園社(現・八坂神社)の社務執行・宝寿院当主。紀氏による血統相続を行っていた祇園執行家においては例外的に他家からの養子として宝寿院を継いでいる。父は大通寺住持・宣澄、祖父は東本願寺第13代法主・宣如、また母方では水無瀬兼俊の孫、九条幸家の曾孫にあたる。

祇園社務執行を世襲する宝寿院の当主として寛文から元禄期にかけて活動した。元禄3年(1690年)に著した『祇園国神明細書』(『祇園社明細書』)は、当時の祇園社の祭神配置や社頭由緒を伝える重要史料とされる。

生涯・事績

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出自と宝寿院への入坊

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祐円は明暦2年(1656年)、近江国長浜の大通寺住持・宣澄(霊瑞院)の子として生まれ、幼名を勝丸といった[1]。父の宣澄は東本願寺第13代法主・宣如(東泰院)の三男であり、祐円は宣如の孫にあたる。『祇園本縁雑実記』には、勝丸の出自について「江州長浜霊瑞院子息」「東本願寺台院之孫也」(台院は東泰院の誤記か)と記されている[1]。

万治3年(1660年)12月18日、5歳(数え年)で祇園社執行・祐満の養子として入坊した[1]。『祇園本縁雑実記』の同日条は「執行祐満養子勝丸五歳」と記し、養父および入坊時の年齢を伝えている[1]。

入坊は当初、同年10月に予定されていたが、祐満の弟である佐竹縫殿介と神福院忠雅が奉行所に訴訟を起こしたため延期された[1]。同書は、両者の訴えが「非分」であったことにより、12月に入坊が実現したと記している[1]。ただし、訴訟における両者の具体的な主張や、その処理の詳細については同条には記されていない[1]。

なお、勝丸と『新編 八坂神社記録』等に見える祐満没後の後継者「乙丸」の関係については、入坊経緯が詳細に記録されていることから同一人物(勝丸=乙丸=祐円)と考えられるが、下坂守の説では勝丸と乙丸を別人とし、勝丸が宝寿院を離脱した後に乙丸が継承したとする。下坂説では乙丸の出自は不明であるが、宝寿院(建内家)が明治時代に政府に提出した八坂神社旧神官由緒書では、祐円を神福院忠雅の子(すなわち祐雅の孫)としている。

社頭行政と『祇園国神明細書』の執筆

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寛文10年(1670年)8月には「祇園社務執行」を称し(当時15歳)、翌寛文11年(1671年)5月に門跡寺院である青蓮院において得度した[2]。社務執行として祇園社頭や御旅所の統制・管理にあたり、寛文12年(1672年)正月には「御旅所宮守身元家筋返答書」などの文書の作成・確認指示を行い、社頭関係者の家筋や由緒の整理を進めた[3]。

元禄3年(1690年)10月、祇園社の祭神配置や社殿・末社・儀式・由緒を詳細に記録した覚書『祇園国神明細書』(『祇園社明細書』)を著した[4][5]。同書において祐円は、本殿中央に牛頭天王(素戔嗚尊)、東(右)に八王子(八柱御子神)、西(左)に姿利采女(婆利采女=稲田姫命)を祀る当時の神仏習合に基づく配置を記録している[4]。この東西の配置は明治時代に神社祭式の座位基準変更に伴い左右が入れ替わったものであり、同書は近世から近代における社頭信仰・祭神配置の変遷を知る上で貴重な史料となっている[4]。

元禄8年(1695年)5月まで社務執行として在職していた記録が確認できる[2]。

示寂と後継

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元禄10年(1697年)2月25日に示寂(死去)した。享年42(満41歳)[6][2]。

祐円の没後、宝寿院は一時的に無住となり、宝永2年(1705年)に若狭小浜藩主家一族の酒井右京亮忠嗣の子である行快が入院するまでの間、執行職には宝光院顕良や神福院忠勝らが就いた[2]。

著作

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  • 『祇園国神明細書』(『祇園社明細書』、元禄3年〈1690年〉10月):社務執行としてまとめた祇園社の祭神・由緒・社殿に関する覚書・明細書。

脚注

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  1. 1 2 3 4 5 6 7 『祇園本縁雑実記』
  2. 1 2 3 4 『新編 八坂神社記録』「祇園社・同社御旅所の役職歴代」832-833頁
  3. ↑ 『八坂神社文書 下』「宝寿院祐円御旅所宮守身元家筋返答書写」186頁
  4. 1 2 3 真弓常忠『八坂神社』29頁
  5. ↑ 『八坂神社文書 上』「社務執行宝寿院祐円書上祇園社明細書」5頁
  6. ↑ 『華頂要略附録』

参考文献

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  • 『八坂神社文書』(上巻・下巻)
  • 『新編 八坂神社記録』
  • 真弓常忠『八坂神社』(学生社)