高徳院
| 高徳院 | |
|---|---|
|
鎌倉大仏 (国宝) | |
| 所在地 | 神奈川県鎌倉市長谷4丁目2番28号 |
| 位置 | 北緯35度19分0.2秒 東経139度32分10.13秒 / 北緯35.316722度 東経139.5361472度座標: 北緯35度19分0.2秒 東経139度32分10.13秒 / 北緯35.316722度 東経139.5361472度 |
| 山号 | 大異山 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年 | 不詳 |
| 開基 | 不詳 |
| 正式名 | 大異山 高徳院 清浄泉寺 |
| 別称 | 鎌倉大仏 |
| 札所等 | 鎌倉三十三観音23番 |
| 文化財 |
銅造阿弥陀如来坐像(国宝) 鎌倉大仏殿跡(国の史跡) |
| 公式サイト | kotoku-in.jp |
| 法人番号 | 7021005001883 |
高徳院(こうとくいん)は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院。本尊は国宝銅造阿弥陀如来坐像の鎌倉大仏[1]。正式には大異山高徳院清浄泉寺(だいいざん こうとくいん しょうじょうせんじ)と号する[2]。開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳。
2004年(平成16年)2月27日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された[3]。
大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説がある(「#歴史」参照)。
近世以前に造立された大仏について、東大寺大仏(現存)、鎌倉大仏 (現存)、雲居寺大仏(現存せず)[4]、東福寺大仏(現存せず)[4]、方広寺の京の大仏(現存せず)[5]などの大仏が挙げられるが、天災や戦乱で失われたものが多く、鎌倉大仏は、造立当初の姿をよくとどめている貴重な存在である[6]。
江戸時代には、鎌倉大仏(像高約11.39メートル)、東大寺大仏(像高約14.7メートル)、方広寺大仏(京の大仏、像高約19メートル)の三尊が、日本三大仏と称されていた[7]。
歴史
[編集]


伝承
[編集]鎌倉大仏復興資金の調達を目的とした勧進所を江戸に設けることを幕府に許可を求めるために、大仏の由来を紹介する文書として{享保18年(1733年)に完成したと考えられる『鎌倉大仏縁起』によれば[8]、聖徳太子の化身である真人が黒い馬に騎乗して富士山から鎌倉深沢の地に天下って清らかな泉を汲み、黒い馬の口にそそいだ霊地に、聖武天皇、行基、良弁、菩提僊那の発願により、染谷太郎時忠を奉行として天平9年(737年)、東国の惣国分寺として創建されたとしている[9][10]。寺名は聖徳太子の化身である真人の逸話にちなみ清浄泉寺と命名され、大般若経を奉納し、本尊は丈六の釈迦、薬師、観世音であったとしている[11]。この伝承は事実ではないが、奈良の大仏を本尊とする東大寺が奈良時代の創建当時、全国の国分寺の頂点に立つ総国分寺として位置づけられたことを踏まえ、鎌倉大仏のある深沢が東国の総国分寺であるとして、大仏創建の意義を実際に建立された鎌倉時代よりも遡らせ、奈良の大仏と同格の奈良時代に置くことを意図したものであった[12]。
寺号無しの寺
[編集]鎌倉大仏の造立前、大仏が建てられた場所は湿地帯であったと考えられている[13]。『吾妻鑑』に嘉禎4年3月23日(1238年5月8日)、大仏殿の建設に関わる記事が掲載されており、この時点で大仏本体の工事も始まっていたと考えられる[14][15]。この時点で制作されていた大仏は、木製であったと考えられている[16][17]。『吾妻鑑』の記事によれば仁治2年3月27日(1241年5月9日)に大仏殿の上棟が行われ[18]。寛元元年6月16日(1243年7月14日)には大仏ならびに大仏殿落成の供養式典が行われた[19][20]。『吾妻鏡』の記述には上棟式、落成式ともに幕府要人の出席は記載されていないものの[21]、実際には幕府、北条氏の強力なバックアップのもとで大仏と大仏殿が造られていったと考えられている[22][23]。
『吾妻鑑』によれば大仏と大仏殿の落成式から9年後の建長4年8月17日(1252年9月22日)、深沢の里で銅造大仏の鋳造が開始された[24][25]。銅造大仏がいつ完成したのかについては記録が残っておらず不明であるが[24][26]、1260年代前半には完成したと推定されている[27][28]。高徳院周辺の発掘時に、大仏の後ろ側約50メートル付近から13世紀後半から14世紀前半頃の青磁片、日本製の陶器、石鍋の破片などが検出されたことにより、僧侶の生活の場である僧房があった可能性が指摘されており[13][29]、千葉県市原市の満光院にある銅造阿弥陀如来像に、鎌倉新大仏に住む僧侶の名前が刻まれていることからも、鎌倉大仏は寺院として僧侶がいたものと考えられている[29]。
しかし鎌倉大仏には寺号は無く、同時代の記録からも「大仏堂」、「新大仏」、「大仏殿」などと呼ばれていたことが確認できる[30]。また文永5年(1268年)に日蓮が幕府要人、鎌倉内の主要な寺院に蒙古襲来を警告した書状を送った際の宛名も、他の寺院は寺院名を明記している中で、鎌倉大仏宛には「大仏殿別当」となっていることからも寺院名が無かったことがわかる[31][32]。鎌倉大仏のような本尊を持つ寺院が名称を持たなかったことは異例なことであるが、その理由ははっきりとしない[33]。
弘安7年(1284年)、真言律宗の高僧である忍性が大仏殿の別当に就任した[34]。これは大仏殿が真言律宗が主に携わる寺院となったことを示していると考えられるが、当時は例えば真言律宗の僧侶が念仏系、密教系を兼学することが盛んに行われており、真言律宗を専修する寺院になったわけではないとも考えられている[35][36]。
衰微
[編集]文明18年(1486年)に書かれた漢詩紀行文である『梅花無尽蔵』の中で、鎌倉大仏は露座であり、大仏内では白昼に博打が行われていたと、その荒廃した状況を伝えている[37][38]。慶長18年(1613年)に英国人ジョン・セーリス、元和2年(1616年)にリチャード・コックスが鎌倉大仏を訪れており、やはり大仏の荒廃した様を紹介している[37]。後述の復興開始前、大仏の足元まで田畑が迫っていたという[39]。荒廃した大仏に追い打ちをかけたのが元禄16年11月13日(1703年12月31日)に発生した巨大地震、元禄地震であった[40][38]。元禄地震の振動で大仏前方の石垣が崩壊して大仏の土台が約3尺落ちてしまい、当時、大仏の管理を行っていた長谷寺が公の機関に修復を依頼したいものの、ままならない状況を嘆いた文書が残っている[41]。
中世後期、鎌倉大仏の管理をどこが担っていたのかははっきりとしないものの、特定の宗派ではなくて各宗派がその都度管理を行っていたと考えられる[42]。江戸時代初期に臨済宗の建長寺が本寺として管理を担っていたことがあるとの記録があり[43]、前述のように元禄地震時の本寺は浄土宗の長谷寺であったことが明らかになっている[44]。
復興の開始と寺号、山号の確定
[編集]荒廃した鎌倉大仏の復興に本格的に取り組んだのが祐天であった。諸国を巡る中で鎌倉大仏の荒廃ぶりを目の当たりにした祐天は、元禄地震直後の宝永元年(1704年)に伝通院の住職となるや、大仏の石座を修復したり、大仏に開いた穴を塞ぎ鳥の侵入を防ぐ修理を行った[45]。祐天は大仏の修理にとどまらず、寺院として不可欠な僧房の建設も計画したものの、これは祐天単独の力に余る事業であった[45]。祐天の復興計画を聞きつけて資金面から多大な援助を行ったのが江戸浅草の豪商、野島新左衛門である[46]。野島新左衛門の資金援助により、正徳2年(1712年)1月には常念仏が開始され、大仏周囲の土地が買い戻され、翌正徳3年(1713年)には新築の仏殿が完成した[46]。新築の仏殿には阿弥陀像、宗祖法然の像などが安置され、念仏修行用の什器、仏具も完備された[39]。
復興の開始とともに寺院としての体裁も整えられていった。正徳2年(1712年)5月、これまで長谷寺が本寺として管理を行っていたのを光明寺に変更する届け出の中で、鎌倉大仏は浄泉寺という寺院名を称していた[47]。当時、通称名としては浄泉寺、清浄泉寺と呼ばれていたと考えられている[47]。光明寺への変更措置について、大仏復興の旗振り役である祐天が増上寺の大僧正となっていたため、野島新左衛門としては増上寺の末寺となることを願っていたものの、祐天本人からこれまで光明寺には世話になっている経過があり、長谷寺の本寺も光明寺であり、増上寺の末寺となって江戸まで本寺のお勤めに出るのも大変であると説得され、光明寺の末寺となることが決まった[45]。光明寺は浄土宗の本山で、壇林を設けていた寺であり、前述のように長谷寺の本寺であった[48]。光明寺の末寺としての待遇は他の光明寺末寺と同様の待遇とはせず、本寺の務めは免除となって、末寺内の位置づけとしては光明寺の奥の院扱いとなり、住職は野島氏が帰依した僧侶を任命することとなった[39][48]。また野島新左衛門は正徳2年に常念仏の維持管理のために念仏料として700両を拠出し、運用を本寺である光明寺に任せることとした。この野島新左衛門が拠出した念仏料700両は貸し付けられて、その利子を寺の維持管理費に充てることになった[注釈 1][50]。
なお寺院名は正徳2年(1712年)に、復興計画に多大な貢献をした野島新左衛門の法名である高徳院を正式な寺院名とすることとなり、寺社奉行への届け出により正式名称として確定した[39][51]。山号については享保14年(1729年)10月の段階で大異山とされていたことが確認されている[51]。享保21年(1736年)になって獅子吼山と改名する手続きが行われたものの[51]、後に大異山に戻っている[52]
初代住職、養国の活躍
[編集]正徳2年ないし3年(1712年ないし1713年)、野島新左衛門は流罪となった。高徳院にとって、大きなスポンサーであった野島新左衛門の流罪は大きな打撃であったが、祐天の助力もあって高徳院の常念仏は継続された。しかし享保3年(1718年)に祐天が没すると、支えを失った高徳院は衰微していった[53]。野島新左衛門は享保6年(1721年)に赦免されて江戸に戻ったが、高徳院には隠者らが住み着き、常念仏も停止していた[54]。流罪となった時点で野島新左衛門は財産を没収されており、経済的に高徳院の復興を担うことは不可能であった。しかし高徳院関係者の説得を聞き入れ、寺の施主となることを了承した[55]。享保18年(1733年)、野島新左衛門は自らの養子であり、信頼する僧侶である養国上人を高徳院の住職とした[56]。養国上人は寺と大仏の復興に尽力することになる[56][57]。
養国上人が高徳院の住職となった享保18年頃の大仏は、全身各所に穴が開き、頭部の螺髪の多くは抜け落ち、背中の扉が無くなっていて鳩やスズメが自由に出入りをして巣を作り、大仏の中に糞をしている状況であった。また穴の開いた部分から雨水が侵入して大仏を傷めていた[58]。養国はまず荒れ果てた寺の建物の修復を行い、大仏の背中の開いたままの扉には、鳥が侵入しないように籠を取りつけた[58]。しかし、寺と大仏の本格的復興のためには多大な資金が必要であったが、かつての大スポンサーであった野島新左衛門からの財政支援が見込めなくなっていた[59]。また寺の維持管理のために運用していた念仏料は貸付利息の徴収が難航していて、そもそも念仏料本体から出費が繰り返されて大きく目減りしてしまっていた[60]。そこで養国上人は托鉢で資金を調達することにした。享保18年(1733年)6月、養国上人は光明寺、増上寺に托鉢で資金を調達して復興を行う計画について相談し、多くの僧侶の賛同を得た。享保18年の年末になって、光明寺側から大仏復興ばかりではなくて大仏殿の再建も目指してはどうかと勧められ、結局、増上寺に大仏殿の復興までを見据えた復興計画の願書を提出した[59]。
大仏修復のための托鉢願書は享保19年(1734年)5月に寺社奉行に提出された。この願書には、大仏殿の復興が盛り込まれていなかった。寺社奉行側の判断は、出家者の托鉢は当たり前のことであるので寺社奉行からの許可云々の話ではないため、自由に行ってかまわない、従って幕府のお墨付きを与える性格のものでもないため、幕府お墨付きの寄付行為であると勘違いはしないようにとのことで托鉢が認められた[61]。
托鉢の開始
[編集]享保19年(1734年)7月、江戸の芝金杉の空き家に「勅願所光明寺奥之院 鎌倉大仏勧進宿所」の札を掛け、ここを拠点に托鉢を開始した[62]。翌享保20年(1735年)には托鉢は本格化し、2月には大仏講中が結成されて活動は順調に進んでいった[62]。托鉢で集められた資金をもとに、9月にはまず白毫と肉髻が造られた[63]。享保20年(1735年)2月には建長寺から大仏の背の銅扉が返還され[注釈 2][65]、元文元年(1736年)4月には大仏頭部の螺髪が出来上がった[64]。また大仏の台座を飾る蓮弁は元文元年の6月に1枚目が完成しており、蓮弁には寄付者の名前が刻まれた[64][66]。
高徳院は、鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代の正徳年間(1711年 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは浄土宗に転じてからである。
『吾妻鏡』には、暦仁元年3月23日(1238年5月8日)、深澤の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められたと記されている。(『吾妻鏡』雨降。未三點、大風。人屋皆破損、庭樹悉吹折。申尅属晴。西風又烈、御八講結願、頗魔障也。今日相摸國深澤里大佛堂事始也。僧浄光令勸進尊卑緇素企此營作」)。5年後の寛元元年6月16日(1243年7月4日)に開眼供養が行われた。(『吾妻鏡』未尅、小雨雷電。深澤村、建立一宇精舎、安八丈餘阿彌陀像、今日展供養。導師、卿僧正良信。讃衆十人、勸進聖人淨光房、此六年之間、勸進都鄙。卑尊莫不奉加。)
同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始されたとの記事もある。それも大仏なら、同年頃に北条氏を中心とした鎌倉幕府が、武家政権の平穏と、相次ぐ自然災害や内乱で不安定だった民衆の安寧を願って建立したとされ、僧・浄光が全国を勧進して資金を集め、奈良の大仏に倣って阿弥陀如来(阿弥陀仏)として造立されたという。また、「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説があったが、後者の説が定説となっている[67]。
『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については、他の事跡がほとんど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与しているとみられるが、『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係、造立の趣意などは未詳である。
鎌倉時代末期には鎌倉幕府の有力者・北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかはこれも史料がないため、不明である。
大仏は、元来は大仏殿のなかに安置されていた。大仏殿の存在したことは、2000年から2001年(平成12年 - 平成13年)にかけて実施された境内の発掘調査によってもあらためて確認されている。『太平記』には、建武2年(1335年)、強風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり、『鎌倉大日記』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。大仏殿については、従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について、『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)(明応地震#明応4年8月15日の地震)とする (『塔寺八幡宮長帳』などの他の史料から、明応7年(1498年)9月20日の明応地震の誤記とされていたが、別個の地震があったことがわかった) 。一方、室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている[注釈 3]。2000年から2001年(平成12年 - 平成13年)の境内発掘調査の結果、応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかった[69]。現在、鎌倉大仏の周囲には、かつて存在した大仏殿の礎石の跡とみられる巨大な石が53個存在する。
露坐となり荒廃が進んだ大仏を、江戸中期に祐天が浅草の商人野島新左衛門の喜捨を得て、養国とともに復興を図る。そして鎌倉大仏の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院の再興に成功し、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけた[70]。
1923年(大正12年)の関東大震災では基壇が壊れ1メートル沈下した。その翌年に基壇は建築学者内田祥三を顧問として戸田組(現戸田建設)により、仏身は帝室技芸員新海竹太郎を顧問に安倍胤斎によって修理が行われた。1959年から2年間行われた大修理では基壇を免震にし、大仏本体にも補強を施すなどした[71]。2017年1月から3月まで保存修理と調査が行われた[72][73][74]。
鎌倉大仏が建立されている場所は、もともと長谷の「おさらぎ」という地名であった。そのため、鎌倉大仏にかぎっては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合がある。また、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓がある[注釈 4]。北条氏の庶流の中には大仏流北条氏があり、執権を出したこともある。
鎌倉大仏
[編集]
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
- 像高約11.39メートル(台座を含め高さ13.35メートル)、面長2.35メートル、眼長1メートル、眉長1.24メートル、口幅0.82メートル、耳長1.9メートル、重量約121トン。[76]
- 角張った平面的な面相、低い肉髻(にっけい)、猫背気味の姿勢、体部に比して大きな頭部など、鎌倉時代に流行した「宋風」の仏像の特色を示す。衣は通肩にまとい、両手を膝上で組む定印を結ぶ。この印相から、真言ないし天台系の信仰との関係が指摘されている。鎌倉時代を代表する仏教彫刻であり、ほぼ造像当初の姿を保つ点でも貴重である。[77]
- 原型作者は不明。鋳造には河内の鋳物師・丹治久友が関与した可能性が指摘されている。像の内外に残る痕跡から、体部は7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて鋳造されたことがわかる。
- 材質は純銅ではなく、銅・錫・鉛などからなる青銅である。1959年から1961年の修理・耐震補強工事で行われた材質分析では、採取部位による差はあるものの、平均含有比率は銅68.7%、鉛19.6%、錫9.3%と報告された。鉛の含有量が多いことなどから、鋳造材料には宋から輸入された中国銭が使用されたとする説がある。[78][79][80]
- 造像当初は表面に金箔が施されていたと考えられ、現在も右頬にその痕跡が残る。重量約121トンは、1959年から1961年の修理時に、ジャッキ23台で像を約55センチメートル持ち上げ、秤を用いて2度計量した結果の平均値である。[81]
- 像内は空洞で、内部を拝観できる。首のくびれに当たる部分の変色は、補強工事で使用された繊維強化プラスチックによるものとされる。
境内
[編集]- 仁王門 - 18世紀初頭に他所より移築されたもので、門の内部に安置されている金剛力士像(仁王像)も同時に移されたものと伝わる。像は1742年(寛保2年)の造立でこれまでに複数回の修復が行われているが、2011年(平成23年)の東日本大震災後の調査で劣化・損傷が明らかになり、2年半をかけて解体修復が行われた[86][87]。この際、仁王門も補修されている[86]。
- 観月堂 - 建屋は朝鮮王宮にあったものを、1924年に山一合資会社(後の山一證券)社長だった杉野喜精が寄贈した[88]。内部には、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠が所持していたとされる聖観音像を安置していた。2010年に、韓国の曹渓宗総務院長の慈乗僧侶が韓日仏教文化交流大会に出席し、観月堂を韓国に返すことで日本仏教界側と合意したと発表[89]。2019年に当時の文化財庁(現・国家遺産庁)と伝統建築修理技術振興財団(京畿道坡州市)が現地調査、研究、精密実測などを進め、韓日共同プロジェクトにつなげた[89]。2024年6月に建物の解体を開始、2025年6月、国家遺産庁と国外所在文化遺産財団は、「朝鮮王室の祠堂建築物と推定される『観月堂』の建物を解体し、部材5000点が韓国国内に戻ってきた」と発表した[89]。高徳院では2027年度を目途に跡地に堂宇を建立する計画で、それまで聖観音像は拝観中止となっている。
歌碑・句碑
[編集]- 与謝野晶子歌碑 - かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな の歌が刻まれている。歌碑には「鎌倉大仏造立七百年記念奉讃 昭和二十七年四月 味の素株式会社」と刻まれている[90]。なお、「釈迦牟尼」とあるが、鎌倉大仏は「阿弥陀如来」である。
- 金子薫園歌碑 ー 寺々のかねのさやけく鳴りひびき かまくら山に秋かぜのみつ 昭和七年十一月 と歌が刻まれている[91]。
- 星野立子句碑 ー 大佛の冬日は山に移りけり の句碑がある。裏面には「立子七十回誕生記念 玉藻会建碑 昭和四十八年十一月建立」とある[92]。
- 高浜虚子句碑 ー 咲き満ちてこぼるゝ花も無かりけり の句碑が、虚子生誕150年を記念して2025年10月に立子の句碑の隣に建てられた。星野椿、星野高士、松尾崇市長ら約80人が参加した除幕式が10月8日におこなわれた。親子の句碑が並び立つのは珍しいという[93]。
交通
[編集]ギャラリー
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ↑ “鎌倉大仏殿高徳院”. 鎌倉大仏殿高徳院. 2021年6月27日閲覧。
- ↑ 三浦勝男『鎌倉の地名由来辞典』東京堂出版、2005年9月10日、115頁。ISBN 9784490106749。
- ↑ 鎌倉市教育委員会『鎌倉の指定・登録文化財目録』鎌倉市教育委員会、2019年2月20日、43頁。
- 1 2 『京都大辞典』(佐和 隆研 / [ほか]編集 淡交社 1984年)
- ↑ 村山修一『京都大仏御殿盛衰記』 法藏館、2003年
- ↑ 高徳院公式HP
- ↑ 薬師寺君子『写真・図解 日本の仏像 この一冊ですべてがわかる』西東社 2016年 p.170
- ↑ 鎌倉大仏史研究会 (2002), pp. 104–105.
- ↑ 鎌倉大仏史研究会 (2002), p. 13.
- ↑ 鎌倉大仏史研究会 (2002), pp. 108–109.
- ↑ 鎌倉大仏史研究会 (2002), pp. 13–15.
- ↑ 鎌倉大仏史研究会 (2002), pp. 58–59.
- 1 2 鎌倉市教育委員会 (2002), p. 21.
- ↑ 塩澤 (2010), pp. 70–71.
- ↑ 清水 (1979), pp. 48–49.
- ↑ 塩澤 (2010), p. 71.
- ↑ 清水 (1979), pp. 49–50.
- ↑ 塩澤 (2010), pp. 76–77.
- ↑ 塩澤 (2010), p. 81.
- ↑ 清水 (1979), p. 53.
- ↑ 清水 (1979), pp. 52–53.
- ↑ 塩澤 (2010), pp. 113–123.
- ↑ 清水 (1979), pp. 92–97.
- 1 2 塩澤 (2010), p. 149.
- ↑ 清水 (1979), pp. 106–107.
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- ↑ 塩澤 (2010), pp. 193–194.
- ↑ 清水 (1979), pp. 112–113.
- 1 2 塩澤 (2010), p. 214.
- ↑ 塩澤 (2010), pp. 217–218.
- ↑ 高橋 (1996), pp. 50–52.
- ↑ 塩澤 (2010), p. 218.
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- ↑ 塩澤 (2010), p. 239.
- ↑ 塩澤 (2010), pp. 236–237.
- ↑ 塩澤 (2010), p. 240.
- 1 2 高徳院国宝銅造阿弥陀如来坐像修理工事委員会 (1961), p. 21.
- 1 2 鈴木 (2002), p. 11.
- 1 2 3 4 鎌倉市史編さん委員会 (1990), p. 439.
- ↑ 鎌倉市史編さん委員会 (1990), p. 436.
- ↑ 鎌倉市史編さん委員会 (1990), pp. 436–437.
- ↑ 鈴木 (2000), p. 40.
- ↑ 鈴木 (2000), p. 51.
- ↑ 鈴木 (2000), p. 40-41.
- 1 2 3 鎌倉市史編さん委員会 (1990), p. 437.
- 1 2 鎌倉市史編さん委員会 (1990), p. 438.
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参考文献
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- 鈴木良明「近世鎌倉大仏の復興・修理と勧進」『美術史論叢 造形と文化』雄山閣、2000年。ISBN 4-639-01696-4。
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- 高橋秀英「中世の鎌倉大仏に関する歴史年表」『鎌倉大仏史研究』第1号、鎌倉大仏史研究会編集委員会、1996年、47-59頁。
- 高橋秀英「江戸前・中期における鎌倉大仏」『美術史論叢 造形と文化』雄山閣、2000年。ISBN 4-639-01696-4。
関連文献
[編集]- 「山之内庄長谷村大佛・獅子吼山」『大日本地誌大系』 第40巻新編相模国風土記稿5巻之96村里部鎌倉郡巻之28、雄山閣、1932年8月、43-45頁。NDLJP:1179240/28。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 鎌倉大仏殿高徳院 - 公式サイト
- 高徳院(大仏殿) - 鎌倉市観光協会
- 鎌倉大仏殿跡 国指定文化財等データベース - 文化庁
- 鎌倉大仏殿高徳院ストリートビュー
- 鎌倉の大仏、半世紀ぶり健康診断 - 神奈川新聞(カナロコ)