マリー・ド・ロアン=モンバゾン
| マリー・ド・ロアン Marie de Rohan | |
|---|---|
| シュヴルーズ女公 | |
|
| |
| 称号 | シュヴルーズ公爵夫人 |
| 出生 |
1600年12月 パリ |
| 死去 |
1679年8月12日 ガニー |
| 配偶者 | シャルル・ダルベール・ド・リュイヌ |
| シュヴルーズ公クロード・ド・ロレーヌ | |
| 子女 |
1:ルイ=シャルル・ダルベール 2:アンヌ=マリー・ド・ロレーヌ 3:アンリエッタ・ド・ロレーヌ 4:シャルロット=マリー・ド・ロレーヌ |
| 家名 | ロアン家 |
| 父親 | モンバゾン公エルキュール・ド・ロアン |
| 母親 | マドレーヌ・ド・ルノンクール |
マリー・ド・ロアン=モンバゾン(Marie de Rohan-Montbazon, 1600年12月 – 1679年8月12日)は、 名門ロアン家出身のフランス貴族女性で、シュヴルーズ公爵夫人。1617年にルイ13世の首席顧問[1]リュイヌ公と結婚し、1618年に王妃アンヌ・ドートリッシュの女官団監督官(surintendante)となって宮廷で強い影響力を持った[2]。王妃の信任を背景に宮廷政治に関与し、シュヴルーズ公クロード・ド・ロレーヌ[3]と再婚後も、生まれながらの美貌と才知により宮廷内で注目を集め宰相リシュリューおよび宰相マザランの政策と対立して追放や亡命を経験し、亡命中も諜報・外交活動を通じて、17世紀フランス宮廷政治に影響を与えた[4]。

生涯
[編集]誕生から最初の結婚
[編集]マリー・ド・ロアンは1600年、ブルターニュとアンジューに広大な領地を持つロアン家のエルキュール・ド・ロアン公爵の娘として生まれた。ロアン家はフランス王家やイングランド王家と姻戚関係を持つフランス有数の大貴族で、王族に準ずる家格を有していた。この出自によりマリーは若年期から王宮社会に進出する基盤を持っていた[5]。
1617年9月、ルイ13世の寵臣で主席顧問シャルル・ダルベール・ド・リュイヌ(Charles d’Albert, duc de Luynes, 1578–1621)と結婚した。翌1618年、マリーはスペイン人女官を一掃する政策[6]により、王妃アンヌ・ドートリッシュの女官団長の監督官(新設の役職surintendante)に任命され、アンヌ王妃に仕えることとなる。この地位は、王妃の宮廷生活を統括するもので、マリーの宮廷での影響力を大きくした。マリーは、快活で華やかで洗練されており社交的な性格であったことから[7]、アンヌ・ドートリッシュの寵愛を受けた。若い王妃は夫ルイ13世に疎外されており、マリー・ド・ロアンの明るく機知に富む性格に慰められた。 [8] [9]。
リュイヌ公は[10]、1619年ピカルディ総督および公爵に叙爵され、1621年にフランスのコネスタブル(軍司令官)に任命されて、夫妻は貴族社会での地位を高めた[11]。この時期、夫妻は生まれたばかりの息子ルイ・シャルル・ダルベール・ド・リュイヌ(1620–1690)の政略結婚を取り決めるなど、フランス宮廷における地位を確立していた。リュイヌ公は、南フランスのユグノー反乱鎮圧に着手したが、12月、モントーバン攻略に失敗し、病死した。

再婚
[編集]1622年4月21日、マリーは有力者シュヴルーズ公クロード・ド・ロレーヌと再婚した[12]。シュヴルーズ公はユグノー戦争でカトリック同盟のリーダーギーズ公アンリ1世の子であり、カトリックの首領ギーズ公フランソワの孫であった。1619年および1621年、王妃アンヌ・ドートリッシュは相次いで流産を経験した。3度目の1622年の流産では女官たちとはしゃいだ後に流産した事から、女官団の監督のマリーは責任を問われ、宮廷から退去させられた。マリーは夫シュブルーズ公爵の権勢により宮廷に返り咲いた。[13]

アミアン事件
[編集]1624年、ヘンリー・リッチ (初代ホランド伯)は、イングランド国王チャールズ1世の特命大使としてルイ13世の妹アンリエット=マリーとチャールズ1世との結婚交渉のために来仏した。ホランド伯は若く容姿端麗であり、まもなくシュブルーズ公爵夫人と恋愛関係に入った。この恋愛は、政治行動へ発展した。ふたりは、王妃アンヌ・ドートリッシュとイギリス宰相バッキンガム公に、政治的かつ恋愛的な結びつきを作る計画を立てた。来仏したバッキンガム公は華麗であり、その豪奢と威光は、国王のような印象を与えた。宮廷がアミアンに行幸したある晩、王妃アンヌ・ドートリッシュが庭園内の小室でひとりで休んでいると、バッキンガム公がホランド伯とともに入り込み、アンヌ王妃に対してきわめて無遠慮で、礼節を欠いた行動に及んだとされる。王妃は侍女たちを呼んだが、その混乱と動揺ぶりは明らかだった。翌日、バッキンガム公は、王妃の寝室に入り込み、ひざまずいて涙を流しながら王妃に別れを告げた。ランノワ伯爵夫人が同席していた。この不祥事はフランス宮廷に衝撃を与え、ルイ13世の猜疑心を深めた[14]。

シャレー事件 1626年
[編集]1626年、シュブルーズ公爵夫人は最初の重大な政治事件に関与する。公爵夫人は、王妃アンヌ・ドートリッシュの最側近として、王弟ガストン・ドルレアン公を中心とする反リシュリュー派貴族と密接な関係を持っていた。当時、宰相リシュリューは王権強化のために王弟派を政治的に抑圧しており、これに不満を持つ貴族たちは、王弟オルレアンを担ぎ上げてリシュリューを排除する計画を進めていた[15]。
この陰謀の中心人物の一人がルイ13世の側近シャレー伯アンリ・ド・タレーラン=ペリゴールであり、公爵夫人の恋人だった。公爵夫人は、アンヌ王妃と王弟オルレアン派の間をつなぐ役割を果たした。公爵夫人が反乱計画を実行した証拠はないが、陰謀関係者の結束の上で重要な存在であった[16]。
しかし計画は発覚し、シャレー伯は逮捕され処刑された。これを受けて、リシュリューは陰謀関係者の排除を進め、シュヴルーズ公爵夫人も国外追放を命じられた。

ロレーヌ亡命 1626-1630年
[編集]国外追放されたシュブルーズ公爵夫人が向かったのはロレーヌであったが、ロレーヌは公爵夫人にとって避難所ではなく、彼女はロレーヌ公シャルル4世を魅了し、焚きつけた[17]。
公爵夫人は、すでにオーストリア側に傾いていたロレーヌ公をイングランドと結びつけ、サヴォイアとも連絡を取り、ロアン家・スビーズ家を通じてプロテスタント勢力の支援を得る欧州規模の計画を形成した。計画の内容は、バッキンガム公率いる英艦隊がレ島に上陸、サヴォイア公がドーフィネとプロヴァンスに侵攻、ロアン公がラングドックで蜂起、ロレーヌ公がシャンパーニュ経由でパリへ進軍する。使者の中心は、シュブルーズ公爵夫人の昔の恋人ホランド伯とバッキンガムの友人であるモンタギュー卿であった。
しかし、リシュリューはこの計画を事前に察知し、使者モンタギュー卿を拘束して書簡を押収、陰謀は瓦解した。レ島遠征は失敗し、ラ・ロシェルは陥落し、反フランス連携は崩壊した。その後、英仏和平交渉の条件の一つとして、シュブルーズ公爵夫人は例外的に帰国を許され、1630年頃、フランスに戻る[18]。

シャトーヌフ陰謀事件 1633年
[編集]帰国後の数年間、シュブルーズ公爵夫人は再び宮廷に影響力を持つ。まだ30歳にも満たず、その美貌は危険なほどであった。リシュリュー自身も公爵夫人に心を動かされ、接近したが公爵夫人に拒絶された[19]。
公爵夫人は、リシュリューの側近中の側近、シャルル・ド・ロベピーヌ、シャトーヌフ侯爵、国璽尚書(Garde des Sceaux)に近づいた。シャトーヌフはリシュリューの忠臣であったが、50歳にして公爵夫人への情熱に囚われた。リシュリューの最側近である国璽尚書という立場にありながら、反リシュリューのアンヌ王妃とシュヴルーズ公爵夫人に味方し、秘密書簡・暗号通信を通じて反リシュリュー派のヴァンドーム公や、外国勢力のホランド伯、モンタギュー、アンリエット・マリー英国王妃と内通した[20]。
1633年12月25日、リシュリュー失脚を企てた策謀によりシャトーヌフ侯爵は逮捕され、アングレーム城塞に送られ、10年間投獄された。共犯の貴族たちもバスティーユ牢獄などへ投獄された。
一方、シュヴルーズ公爵夫人は、穏便な処分を受け、領地ダンピエールへの隠遁を命じられたのみであった。しかし、その後も、変装したシュヴルーズ夫人はルーヴル宮へ忍び込み王妃に会いに行った。これらはやがて察知され、シュヴルーズ夫人はトゥール地方へ追放された。この一件では王妃の侍従ラ・ポルトが通信役として逮捕され、バスティーユ牢獄で厳しい尋問を受けた。

スペイン亡命 1637年
[編集]1637年9月6日、シュヴルーズ公爵夫人は自らの判断で[21][22]。密かに男装して亡命を開始した。納屋の干し草の上で眠り、ほとんど食事も取らなかった。しかし、黒い騎士姿の彼女は美しく魅力的で、その勇ましい姿は称賛を集め、この冒険的な旅のあいだ、意図せず多くの人々を魅了した。公爵夫人の勇気と快活さは終始衰えることなく、この勇敢さを讃える歌まで作られた[23]。公爵夫人は数え切れぬ疲労と危険を越えて、ようやくスペインに到達し、二度目の苛酷な亡命生活へと身を投じた[24]。
シュヴルーズ公爵夫人の逃亡の報に際し、リシュリュー枢機卿は大きく動揺し、彼女の国外脱出を阻止すべくあらゆる手を尽くした。「逮捕ではなく拘留せよ」と命令が下った。夫シュブルーズ公爵や崇拝者たちが、この美しき逃亡者へ援軍を送ったが、公爵夫人はすでにスペイン領に足を踏み入れていた。
ヴィニエ高等法院長(Président Vignier)は、スペインに使者を送り、シュブルーズ公爵夫人への恩赦とフランス帰国の勧告を伝えたが、彼女はすでにマドリードに到着した後であった。スペイン宮廷で彼女はフィリップ4世から歓迎を受け、宰相オリヴァレス公爵と接触し、政治的影響力を持つに至った。
1638年初頭、フランス・スペイン戦争[25]進行により立場は不安定となり、公爵夫人はイングランドへ移動する[26]。ロンドンではチャールズ1世と王妃ヘンリエッタ・マリアに迎えられ、フランス帰国と財産回復を目指す外交的働きかけが行われたが、リシュリューの存命中には成功しなかった。
1643年4月20日、フランス王令によって公爵夫人の永久追放が正式に宣告された[27]。
マザラン暗殺未遂 1643年
[編集]ルイ13世とリシュリューの死去後、アンヌ・ドートリッシュが幼いルイ14世の摂政となり、シュブルーズ公爵夫人はフランスへの帰国が許可された。
1643年9月1日に、公爵夫人を中心に計画された宰相マザランに対する夜間の暗殺計画は失敗した。ボーフォール公は逮捕され、ヴァンセンヌ城へ送られた。この事件により、反マザラン派は追放・亡命・監視下に置かれた。ボーフォール公逮捕後、マザランは陰謀の中枢であるシュヴルーズ公爵夫人を、領地ダンピエールに退去させた。しかし、公爵夫人はなおも陰謀を継続し、関係者を匿い、国外勢力(スペイン、ロレーヌ、イングランド)と連絡を取り続けた。
1647年、アングレームへの移送命令を受け、監獄に送られることを恐れた公爵夫人は、娘シャルロットとともにフランスを脱出。サン=マロから船でイングランドへ向かう途中、清教徒革命に巻き込まれて議会派に捕らえられた。しかし知己のペンブルック伯の尽力で釈放され、フランドルへ渡った。
シュブルーズ公爵夫人はリエージュに拠点を置き、ロレーヌ公シャルル4世、スペイン、神聖ローマ帝国との反フランス連携を維持した。マザランはこれを妨害しようとするが、公爵夫人の影響力は依然として強かった。
フロンドの乱(1648–1653)
[編集]1649年、約50歳となったシュヴルーズ公爵夫人は、パリに帰還し、フロンドの乱のフロンド派として主要な指導的役割を果たした。しかし2期フロンドでは情勢に応じてマザラン派とコンデ公派の間を巧みに移動した。1650年にはコンデ公逮捕を支持した。1651年には娘シャルロットとコンティ公の結婚構想を背景にコンデ派へ転向した。1652年には再びマザラン側へ転向した。公爵夫人はレス枢機卿(ジャン=フランソワ・ポール・ド・ゴンディ)の「第三勢力」構想には加わらず、最終的に、強固な王権がフランスに必要であると判断した[28]。

晩年と死
[編集]フロンドの乱後、シュブルーズ公爵夫人は王権側の人物として復権し、フーケ失脚とコルベール登用を支持した[29]。
晩年には世俗的栄光を退け、ガニーの小さな別荘に隠遁。 1679年8月12日、79歳で死去。 簡素な埋葬を望み、現在のサン・ドニ県にあるガニーの教区教会に静かに葬られた。
墓碑銘には、彼女の姓名・家系・二度の結婚のみが簡潔に記されている。

歴史家による人物評
[編集]17世紀の貴族で作家のラ・ロシュフーコー(François de La Rochefoucauld, 1613‑1680)や、19世紀のフランスの哲学者で歴史家の ヴィクトル・クーザン(Victor Cousin, 1792‑1867)は以下のように語っている。
シュブルーズ公爵夫は、才知、美貌、野心に恵まれ、社交的で活発かつ陽気で大胆で生命力にあふれ、目的を達成するためにはあらゆる魅力を駆使した。公爵夫人は宮廷内で最も影響力のある女性の一人であり、外交や政治に巧みに介入した。
公爵夫人の美貌は、彼女の運命に大きく寄与した。ほぼ全ての同時代人がその美しさを称賛し、青い大きな瞳、豊かな栗色の髪、魅力的な顔立ち、優雅さと生気を兼ね備えた容姿は、生涯にわたり人々を魅了した。さらにシュヴルーズ公爵夫人は、優雅な魅力だけでなく、女性の弱さも持ち合わせた女性で、その恋愛と友情と情熱と誇り高さが、彼女を何度も危機に落とした。
ロシュフーコーは、「彼女が関わったすべて男性は不運に見舞われたが、同時に彼女を愛する男性たちも無謀な行動に彼女を巻き込んだ」と言っている。ロレーヌ公、シャレー伯の恋人であったこともあるが、彼女自身はその巧みさと勇気で多くの困難を乗り越え、友人に対しては誠実であり、彼女の美貌と個性は同時代の男性たちを魅了した。亡命中は国内外の崇拝者から支援を受け、フィレンツェのダンクル元帥のように莫大な宝飾品を贈る崇拝者たちも存在した。女性の優しさと男性的なエネルギーの混合こそが、彼女の性格の最も際立った特徴であった。
公爵夫人の絶大な魅力と影響力は、リシュリューやマザランさえ警戒した。 1660年のピレネー条約締結後も、マザランはフランスのアマゾネスたる女性を警戒し、シュブルーズ公爵夫人を三大王国をも揺るがすほどの能力を持つ女性の一人として評価した[30]。
物語など
[編集]シュヴルーズ公爵夫人の波乱に満ちた恋と野望の生涯は、物語作家にとって好まれるところとなった。アレクサンドル・デュマ・ペールの『ダルタニャン物語』に彼女は登場し、『三銃士』ではアラミスの恋人で王妃とバッキンガム公爵に関する事件に関わり、『二十年後』ではフロンドの乱に関わり、『ブラジュロンヌ子爵』ではルイ14世の出生の秘密を握る一人として登場する。三銃士のアトスと旅先の一夜で『ブラジュロンヌ子爵』の主人公ラウル・ド・ブラジュロンヌをもうけている。

ガエターノ・ドニゼッティの悲劇『Maria di Rohan』はシュヴルーズ公爵夫人とシャレーの陰謀を題材にしており、1843年6月5日にウィーンで初上演された。この作品は同年11月、パリでも上演されて成功を収めている。
2002年にはドクター・フーの番組内で彼女が扱われた。
子女
[編集]最初の夫シャルル・ダルベール・ド・リュイヌ公との間に1男をもうけた。
- ルイ=シャルル・ダルベール(Louis‑Charles d’Albert、1620年12月25日 – 1690年10月10日)は、1620年12月25日にパリのルーヴル宮殿で生まれた。名付け親はルイ13世。父の死去(1621年)により、幼くして第2代リュイヌ公爵を継承した。1639年にフランス貴族院議員になり、1643年に大鷹匠に任命され、1640年のフランドル戦線に出陣して手柄を立てた。哲学書の翻訳にも関わり、ルネ・デカルトの『省察』をフランス語に翻訳し、デカルトはこの栄誉に感謝するために公を訪れた。シュブルーズ公爵位を継承している[31]。
二度目の夫シュヴルーズ公クロード・ド・ロレーヌとの間に3女をもうけた。
- アンヌ・マリー(1624年 - 1652年) - ポントーダム女子修道院長
- シャルロット・マリー(1627年 - 1652年) - レス枢機卿(ジャン=フランソワ・ポール・ド・ゴンディ)の愛人
- アンリエット(1631年 - 1693年) - ジュアール女子修道院長
脚注
[編集]- ↑ 首相格。宰相ではない
- ↑ Encyclopaedia Britannica, "Marie de Rohan-Montbazon, duchess de Chevreuse", Encyclopaedia Britannica Online
- ↑ 大侍従(Grand chambellan de France)。最高位の宮廷職の一つ
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ ルイ13世とリュイヌ首席顧問の政策による
- ↑ ロシュフーコーの回想録より
- ↑ Encyclopaedia Britannica, "Marie de Rohan-Montbazon, duchess de Chevreuse", Encyclopaedia Britannica Online
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ 中流の貴族出身でアンリ4世の小姓からルイ13世の寵愛を受け、母后マリー・ド・メディシスの宮廷追放や反乱鎮圧などの功により短期間で急速に昇進
- ↑ Batiffol, Louis (1920). La duchesse de Chevreuse : une vie d’aventures et d’intrigues sous Louis XIII. Paris: Hachette. Internet Archive版
- ↑ url=https://www.britannica.com/biography/Marie-de-Rohan-Montbazon-duchesse-de-Chevreuse |title=Marie de Rohan-Montbazon, duchess de Chevreuse |website=Encyclopaedia Britannica
- ↑ アラン・ドゥゴー『アラン・ドゥコー『ルイ14世治下の女たち』
- ↑ ロシュフーコー『回想録』
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ 状況が安全な場合は緑の祈祷書が、身に危険が差し迫った場合は赤い祈祷書がロシュフーコーから届くことになっていたが、何も届かないうちに公爵夫人は出発した。リシュリューは公爵夫人を逮捕する予定はなかった
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ 「ラ・ボワシエール、言っておくれ。私は男装がよく似合っているかしら?本当に、あなたの言うとおり。私は誰よりも巧みに馬を操っているでしょう」
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ (1635年 - 1659年)。三十年戦争にフランスが本格参戦した結果、ハプスブルク家(スペイン)との対立が激化し、1635年に宣戦布告された。フランスは宰相リシュリューのもと、ハプスブルク家を弱体化させるためスペインに侵攻。1659年のピレネー条約で終結し、フランスが優位に立った
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth
- ↑ https://www.cambridge.org/core/books/abs/cambridge-descartes-lexicon/luynes-duc-de-louischarles-dalbert-16201690/73C5DEED1B67560A74BD8A1BAA12F979
参考文献
[編集]- ロシュフーコー『回想録』ウィキソース版
- Marie de Rohan-Montbazon, duchess de Chevreuse - Encyclopaedia Britannica
- クーザン, ヴィクトル著 『リシュリューとマザランの下におけるフランス宮廷の秘密史 ― マドモアゼル・ド・シュヴルーズの生涯』, 翻訳: メアリー・L・ブース, 1859年, ニューヨーク: Delisser & Procter. インターネットアーカイブ版
- Cousin, Victor (1871). Secret History of the French Court under Richelieu and Mazarin; or, Life and Times of Madame de Chevreuse. Translated by Mary L. Booth. ウィキソース版
- Batiffol, Louis (1920). La duchesse de Chevreuse : une vie d’aventures et d’intrigues sous Louis XIII. Paris: Hachette. インターネットアーカイブ版
- Luynes, Duc de (Louis‑Charles d’Albert) (1620–1690)*, *The Cambridge Descartes Lexicon*, Cambridge University Press, published online 05 January 2016.
- Cambridge University Press 版 ケンブリッジ大学出版
- アラン・ドゥコー『ルイ14世治下の女たち』(川田靖子訳/大修館書店・1980年)
=原著 Les femmes et la cour de France au XVIIe siècl
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