コンテンツにスキップ

直世王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
直世王
続柄 清原王の子

身位 諸王従三位
出生 宝亀8年(777年
死去 承和元年1月4日834年2月15日
配偶者 不詳
子女 助雄王
文室笠科
父親 清原王
母親 不詳
役職 中納言
テンプレートを表示

直世王(なおよおう、宝亀8年(777年[1] - 承和元年1月4日834年2月15日))は、平安時代前期の皇族。名は真世王猶世王とも記される[2]一品長皇子の後裔。従五位上清原王の子。官位従三位中納言

延暦23年(804年縫殿大允に任ぜられ、平城朝では大舎人允内蔵助を歴任する。

弘仁元年(810年従五位下・内蔵頭に叙任される。弘仁2年(811年従五位上中務大輔、弘仁7年(816年正五位下蔵人頭、弘仁9年(818年従四位下左京大夫と、嵯峨朝では順調に昇進し、弘仁12年(821年参議左大弁に任ぜられ公卿に列した。弘仁13年(822年従四位上

淳和朝でも引き続き参議に左大弁を兼帯する一方、天長4年(827年正四位下に叙せられている。天長7年(830年従三位中納言中務卿に叙任。同年、薬師寺にて毎年法事を開催して、高徳の僧侶を集めて『最勝王経』の講説を行うこと、この法会における論議を諸国の講師・読師に任用するための試験とすることを上奏し、許されている(『薬師寺最勝会』)[3]。また、淳和天皇により『日本後紀』の編纂にも参画した[4]

天長10年(833年仁明天皇即位に伴い兼官が弾正尹に移るが、まもなく中務卿に還任している。承和元年(834年)1月4日薨去享年58。最終官位は従三位中納言兼中務卿。

注記のないものは『六国史』による。

  1. 『続日本後紀』の薨伝による享年58から逆算。『公卿補任』では宝亀6年生とする。
  2. 『本朝皇胤紹運録』
  3. 『日本後紀』天長7年9月14日条
  4. 『日本後紀』序文
  5. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 『公卿補任』
  6. 『日本文徳天皇実録』天安2年3月14日条
  7. 宝賀[1986: 179]

参考文献

[ソースを編集]