楊維楨
楊 維楨(よう いてい、元貞2年(1296年) - 洪武3年5月25日(1370年6月19日))は、中国元代の詩人。字は廉夫。号は鉄崖。
生涯
[編集]元のテムル(成宗)の元貞2年(1296年)、紹興路諸曁県に生まれる。父の楊宏は没後に奉訓大夫・瑞安州知州・飛騎尉を贈られ、会稽県男に追封された。母の李氏は、南宋の左丞相の李宗勉の四世の孫娘、夫に合わせ会稽県君に追封された[1][2]。
幼いころ、父の楊宏は鉄崖山に楼閣を築いて数万巻の書を集め、維楨の勉強部屋とし、楼の周りに梅百株を植え、梯子を外して出られないようにして、食事も轆轤で運んだという[2][3]。楼上で勉強すること5年、経史諸子百家を読破し、この鉄崖山での経験から鉄崖を名乗るようになる。父はさらに維楨を鍛えるために、成人年齢にいたっても、すぐに嫁を娶らせず、甬東(舟山島あるいは寧波の辺り)へ遊学に送り出した[4][2]。
イェスン・テムル(泰定帝)の泰定4年(1327年)、32歳で『春秋』の経学によって科挙に及第し、進士の称号を得る[5][2]。天台県尹となり[3]、承事郎の位階を得たが、悪辣でずるがしこい官吏たちとうまく行かずに官を辞す[4][2]。その後しばらくして、紹興路の銭清場塩司令(銭清鎮の塩場の責任者)となるが、高い塩税に苦しむ民のために銭清鎮を管轄する江浙等処行中書省に何度も意見したが、聞き入れられなかったので、職を賭して減税を実現させるも、急に両親を相次ぎ亡くし、喪に服しているうちに人事に見放され、しばらくまともに任用されなかった[4]。
そうして10年、詔により遼金宋三史の編修が行われ、それに対して正当論(元は宋を継ぐもので、遼と金の後継ではないという立場)をもって批判すると、それを聞いた翰林学士の欧陽玄が感心し、維楨を推薦しようとしたが、またこれを阻止しようとするものがいてうまくいかなかった[4][2]。いろいろな伝手を尋ねて、杭州路四務提挙司提挙に着任して、昼夜事務職に励んだ[4]。建徳路総管府推官に転任して、承務郎に昇進し、公正な裁判のために最善を尽くし、悪事をあばいて、冤罪を防ぐよう努力した[4]。しばらく勤めた後、奉訓大夫の位に昇り、江西等処儒学提挙司提挙への着任が決まったが、元末の兵乱に会って、赴任することができず、妻子を伴って富春山に乱を避け、その後、浙西の山水をあてどなく旅しながら、銭塘県に至り[4][3]、書を読み詩を作って過ごした[6]。
この頃、平江路で反乱を起こした張士誠が、元の浙江左丞相であったタシュ・テムル(達識帖睦邇、Taš temür、達丞相)に降伏恭順して、太尉に任じられていた[7][8]。この張士誠が維楨に目をつけ、何度も呼び出しをかけたが、維楨は応じず、張士誠とタシュ・テムルに逆らうことになったが、その後の難に巻き込まれるのを逃れた[3][2]。
晩年は松江府華亭県に住み、しばしば居を移しながらも、地元の士大夫や地域の文人達が毎日住まいを訪れ、酒宴を開いては大騒ぎをしていた[3][2]。維楨自身は酒を嗜まなかったが、鉄葉でできた華陽巾をかぶり兎毛の羽衣を着て、船上で鉄笛を吹いて梅花弄や回波引の曲を奏して鉄笛道人と号し[3][9][10] 、詩壇の盟主として江南に君臨したが、そのあまりの奔放な生活態度のため、文妖と罵られたこともあるという[11]。
明の太祖朱元璋が洪武2年(1369年)に、礼楽の書を編纂し、『元史』を編修するために儒学者を集めた時、前朝を良く知る老学者として維楨も招聘され、老齢を理由に初めは固辞するも、再三の要請に応じて都の応天府に赴き、滞在して仕事をすること4カ月で肺病を得、洪武3年(1370年)に帰宅してまもなく75歳で死去し、華亭県の干山(現在の天馬山)の墓に葬られた[12][13][2]。
その詩風は常識や日常の域を乗りこえることを目指し、華麗で自由奔放な表現を特徴とする。過去の詩では六朝の『楽府』、唐代の李白や李賀を模範とする。吉川幸次郎は、維楨を「南方市民文学の指導者」と称する[5]。
著作
[編集]- 『安岳集』
- 『春秋合題著説』
- 『四書一貫録』
- 『五経鈐鍵』
- 『史義拾遺』
- 『鉄崖古楽府』10巻
- 『楽府補』6巻
- 『東維子集』30巻
- 『楊鉄崖詩集』26巻
脚注
[編集]出典
[編集]- ↑ 帝塚山年報 1974, pp. 69–71.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 伏見 1968.
- 1 2 3 4 5 6 『明史』巻285 列伝第173
- 1 2 3 4 5 6 7 帝塚山年報 1974, pp. 72–77.
- 1 2 吉川 1969.
- ↑ 名賢 1927, pp. 130–131.
- ↑ 金檀 注ほか (1895-1897) (中国語). 高青邱全集. 巻首. 青木嵩山堂. p. 29
- ↑ 田中貢太郎『剪灯新話』 (新潮文庫 第389編)、新潮社、1939年、78-79頁。
- ↑ 名賢 1927, pp. 133–134.
- ↑ 岩渓晋 編『檀欒集』 第20-27集、岩渓晋、1903年 - 1912年、18頁。「昔楊鉄崖絶剣錬為笛冠鉄葉衣兎褐吹之作囘波引」
- ↑ 福本雅一「明朝文苑伝 其二 呉中四傑(続)」『帝塚山学院短期大学研究年報』第27号、帝塚山学院短期大学、1979年12月、93頁。
- ↑ 名賢 1927, pp. 132–133.
- ↑ 帝塚山年報 1974, pp. 77–79.
参考文献
[編集]- 伏見冲敬「楊維楨書・張栻城南詩巻」『書品』第189号、東洋書道協会、1968年3月、2-5頁。
- 福本雅一「近世文苑傳 其二 薩都剌・丁鶴年・楊維楨」『帝塚山学院短期大学研究年報』第22号、帝塚山学院短期大学、1974年12月、55-88頁。
- 吉川幸次郎「元明詩概説 第3章 第2節 楊維楨 南方市民文学の指導者」『吉川幸次郎全集』 15巻、筑摩書房、1969年、434-440頁。
- 山本悌二郎、紀成虎一「楊鉄崖」『宋元明清書画名賢詳伝』 巻2、丙午出版社ほか、1927年、130-141頁。
- 『元史』巻190
- 『新元史』巻238
- 『明史』巻285
- 『明史稿』巻266
- 『明書』巻145
- 『国朝献徴録』巻115
- 華寧『楊維楨』(石頭出版、2006年)ISBN 978-957-9089-86-9
- 吉川幸次郎『元明詩概説』(岩波文庫、2006年)ISBN 978-4-00-331524-8