雅楽
雅楽(ががく)は、日本の宮廷音楽・舞踊を中心とする伝統芸能である。日本列島に古くから伝わった歌舞と、中国大陸・朝鮮半島などから伝来した楽舞が、宮廷儀礼、寺社の祭祀、法会、饗宴などの場で受容・再編されて成立した[1]。
現在、日本で雅楽と呼ばれるものには、神楽歌、東遊、大和歌、久米歌、五節舞などの国風歌舞、外来系楽舞に由来する唐楽・高麗楽、器楽合奏である管絃、舞を伴う舞楽、声楽曲である催馬楽・朗詠などが含まれる[1][2]。唐楽は左方、高麗楽は右方に配され、舞楽ではそれぞれ左方舞・右方舞として区別される[2]。
狭義には、宮内庁式部職楽部が伝承する宮中雅楽を指すことが多い。広義には、春日大社、四天王寺、住吉大社など寺社に伝わる雅楽、地域の祭礼における楽舞、近現代の復曲・創作活動、雅楽器を用いた現代作品まで含めて用いられることもある[1][3]。
宮内庁式部職楽部が伝承する雅楽は、重要無形文化財に指定され、その保持者は総合認定を受けている。また、2009年(平成21年)にはGagakuとしてユネスコの無形文化遺産の代表一覧表に記載された[4][5]。
概要
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雅楽は、音楽、舞踊、歌唱、装束、仮面、舞台空間、儀礼所作を含む総合芸能である。単なる器楽合奏ではなく、宮廷儀式、神事、仏教法会、饗宴、年中行事などの場で演奏・上演されてきた。雅楽の演奏では、楽器による音響だけでなく、舞人の所作、装束や面、舞台の配置、儀礼の次第が一体となって意味を形づくる[1][6]。
日本の雅楽は、内容の系統から大きく、国風歌舞、外来系楽舞、歌物に分けられる。国風歌舞は、日本古来の歌舞を宮廷儀礼や神事の中で整えたもので、神楽歌、東遊、大和歌、久米歌、五節舞などを含む。外来系楽舞は、中国大陸や朝鮮半島などから伝来した楽舞を日本で受容・再編したもので、唐楽と高麗楽を中心とする。歌物は、平安時代の宮廷社会で成立・発達した声楽曲で、催馬楽や朗詠などを含む[1][2]。
演奏形式から見ると、雅楽には、舞を伴わない器楽合奏である管絃と、舞を伴う舞楽がある。唐楽には管絃と舞楽の双方があり、高麗楽は現在では主に右方舞として伝承される。催馬楽・朗詠は、雅楽器の伴奏を伴う声楽曲として、管絃や御遊の文化とも結びついた[2]。
雅楽の伝承は、古代の雅楽寮、平安時代以降の楽所・楽家、近世の三方楽所、明治初年に設けられた雅楽局、近代の宮内省雅楽部を経て、現在の宮内庁式部職楽部へとつながる。一方で、寺社や地域社会にも独自の雅楽伝承が残り、近現代には復曲、復元楽器、現代作品、民間団体による演奏活動なども展開している[7][8][3]。
語義と範囲
[編集]「雅楽」は、もとは「雅正の楽」を意味し、俗楽に対する語として用いられた。古代中国の礼楽思想に由来する語であるが、日本の雅楽は古代中国の雅楽そのものではなく、日本列島において外来系楽舞と在来歌舞が受容・再編された伝統芸能である[1]。
日本語で「雅楽」と呼ぶ場合、狭義には宮内庁式部職楽部が伝承する宮中雅楽を指す。この意味での雅楽は、宮中儀式における奏楽や公開演奏を通じて伝承され、重要無形文化財およびユネスコの無形文化遺産として位置づけられている[4][5]。
広義には、寺社の祭礼や法会に伝わる楽舞、地域に残る雅楽伝承、近代以降に復曲された楽曲、雅楽器を用いた現代作品まで含めて「雅楽」と呼ぶことがある。ただし、宮中雅楽、寺社伝承、復曲、現代作品は成立事情や伝承主体が異なるため、記事中では必要に応じて区別して扱う[3]。
本記事では、主として日本の雅楽を扱う。中国、朝鮮、ベトナムなど東アジア各地の雅楽・宮廷音楽については、日本雅楽との関係と相違を後節で概説する。
分類
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国風歌舞
[編集]国風歌舞は、日本古来の歌舞に由来する雅楽の一系統である。神楽歌、東遊、大和歌、久米歌、五節舞などが含まれ、神事や宮廷儀礼と深く結びついて伝承された[9]。
国風歌舞は、外来系の唐楽・高麗楽とは異なり、日本列島の祭祀歌舞を宮廷儀礼の中で整えたものとされる。神楽歌や東遊は神前で奏され、大和歌・久米歌は宮廷儀式と関係した。五節舞は、新嘗祭・大嘗会などの宮中儀礼と結びついた女舞として知られる[9][10]。
国風歌舞では、唐楽の管絃とは異なる楽器編成が用いられる。神楽歌では神楽笛、和琴、笏拍子などが重要な役割を担い、歌と舞が儀礼の次第と結びついて演じられる[11]。
唐楽・高麗楽
[編集]唐楽と高麗楽は、外来系楽舞に由来する雅楽の中心的な分類である。唐楽は、中国唐代の楽舞を中心としながら、林邑・天竺などに由来する楽舞も含めて日本で整理された。高麗楽は、朝鮮半島系の楽舞を中心とする右方の楽である[12]。
平安時代以降、唐楽は左方、高麗楽は右方に配され、舞を伴う場合には左方舞・右方舞として区別された。左方舞は赤系統、右方舞は緑または青系統の装束を基調とすることが多く、舞振り、楽器編成、舞台上の配置にも違いがある[2][13]。
唐楽には、舞を伴わない器楽合奏である管絃と、舞を伴う舞楽の双方がある。一方、現在伝承される高麗楽は主に舞楽として扱われる。唐楽の管絃で用いられる笙、楽琵琶、楽箏は、通常の高麗楽の舞楽では用いられず、高麗楽では高麗笛、篳篥、三ノ鼓、大太鼓、大鉦鼓などが中心となる[2]。
管絃
[編集]管絃は、雅楽において舞を伴わずに演奏される器楽合奏である。唐楽の管絃では、笙・篳篥・龍笛の三管、楽琵琶・楽箏の両絃、鞨鼓・太鼓・鉦鼓の三鼓を中心とする編成が用いられる[2]。
管絃では、篳篥が主旋律を奏し、龍笛が同じ旋律を装飾的に奏し、笙が和音を加える。打楽器は拍節を示し、琵琶・箏も旋律楽器というより拍節や句切れを支える役割を担う。舞楽の伴奏に比べ、管絃ではゆるやかで繊細な演奏が行われる[2]。
管絃は、宮廷貴族の御遊とも深く関わった。平安時代には、管絃、催馬楽、朗詠などが貴族の教養として重視され、王朝文学にも楽器演奏や合奏の場面が描かれた[14][15]。
舞楽
[編集]舞楽は、雅楽の演奏に合わせて舞われる舞を伴う芸能である。唐楽系の舞は左方舞、高麗楽系の舞は右方舞と呼ばれる。左方舞と右方舞は、楽器編成、装束、舞振り、舞台上の進行などに違いがある[2][13]。
舞楽は、舞人の人数によって一人舞、二人舞、四人舞などに分けられる。また、舞の性格によっても分類され、文舞、平舞、武舞、走舞、童舞などがある。文舞や平舞は比較的ゆるやかな舞、武舞は武具を持つ舞、走舞は動きの速い舞、童舞は少年によって舞われる舞を指す[13][15]。
舞楽では、装束、面、舞具も重要な要素である。襲装束、蛮絵装束、裲襠装束、別装束などが用いられ、演目の性格や役柄を視覚的に示す。蘭陵王、納曽利、迦陵頻、胡蝶、青海波などは、装束や舞姿の面でもよく知られる代表的な舞楽曲である[13]。
催馬楽・朗詠
[編集]催馬楽と朗詠は、雅楽器の伴奏を伴う声楽曲である。唐楽・高麗楽が外来楽舞をもとにした器楽・舞踊の体系であるのに対し、催馬楽・朗詠は歌詞をもつ声楽曲として宮廷社会で発達した[1][16]。
催馬楽は、日本の民謡や流行歌に由来する歌詞を、唐楽風の器楽伴奏に合わせて歌う声楽曲である。もとは地方歌謡や民間歌謡に由来する要素を含むが、宮廷社会のなかで洗練され、雅楽の声楽曲として伝承された。現存曲には呂歌と律歌があり、三管・両絃の伴奏に笏拍子を加えて歌われる[16]。
朗詠は、漢詩文に旋律を付して詠じる声楽曲である。漢詩文を声に出して詠む文化と雅楽の伴奏が結びついたもので、平安貴族の教養や饗宴文化と関係した。催馬楽・朗詠はいずれも、管絃や御遊の場で演奏され、宮廷社会における声楽文化を形成した[14][16]。
楽器と音楽的特徴
[編集]楽器編成
[編集]雅楽で用いられる楽器は、管楽器、絃楽器、打楽器に大別される。ただし、雅楽の楽器編成は一つに固定されているわけではなく、国風歌舞、唐楽、高麗楽、管絃、舞楽、催馬楽、朗詠など、種目や上演目的によって異なる[2]。
唐楽の管絃では、笙・篳篥・龍笛の三管、楽琵琶・楽箏の両絃、鞨鼓・太鼓・鉦鼓の三鼓を中心とする編成が用いられる。篳篥は主旋律を奏し、龍笛は同じ旋律を装飾的に奏する。笙は和音を加え、打楽器は拍節を示す。楽琵琶・楽箏は、旋律楽器としてだけでなく、拍節や句切れを支える役割も担う[2]。
舞楽では、管絃とは異なる編成が用いられる。唐楽系の左方舞では、笙・篳篥・龍笛に、鞨鼓・大太鼓・大鉦鼓などを加えるが、通常は楽琵琶・楽箏を用いない。高麗楽系の右方舞では、篳篥・高麗笛・三ノ鼓・大太鼓・大鉦鼓などが用いられ、笙・龍笛・鞨鼓は用いない[2]。
国風歌舞では、唐楽・高麗楽とは異なる楽器編成がみられる。神楽歌では神楽笛、和琴、笏拍子などが重要な役割を担い、東遊や大和歌などでは、曲目や儀礼に応じて外来系の管楽器も組み合わされる[11]。催馬楽では笏拍子、三管、両絃を用い、朗詠では笏拍子と三管を中心に伴奏する[16]。
このように、雅楽の楽器は、単一の標準編成によってではなく、楽種、演奏形式、儀礼の性格に応じて組み合わされる。楽器編成の違いは、唐楽と高麗楽、管絃と舞楽、国風歌舞と歌物を区別する重要な要素である[2]。
管楽器
[編集]雅楽の管楽器には、笙、篳篥、龍笛、高麗笛、神楽笛などがある。
笙は、複数の竹管を用いる自由簧楽器で、唐楽の管絃や左方舞で用いられる。管絃では和音を奏し、楽曲全体に持続的な響きを与える。歌物では、管絃や舞楽のときとは異なり、単音による旋律的な役割を担う場合もある[16]。
篳篥は、ダブルリードをもつ縦笛であり、雅楽の旋律を担う中心的な楽器である。唐楽、高麗楽、国風歌舞、歌物など幅広い種目で用いられ、強くよく通る音色によって旋律を明確に示す。管絃では、篳篥が主旋律を奏する[2]。
龍笛は、唐楽の管絃や左方舞で用いられる横笛である。篳篥と同じ旋律を奏しながら、装飾的な動きを加え、旋律に広がりを与える[2]。高麗楽では龍笛に代わって高麗笛が用いられる[11]。
高麗笛は、主として高麗楽系の右方舞で用いられる横笛である。龍笛よりも小型で高い音域をもち、右方舞の響きを特徴づける。神楽笛は、神楽歌など国風歌舞で用いられる横笛であり、宮中神事や神前の歌舞と結びついている[11]。
絃楽器
[編集]楽琵琶は、唐楽の管絃で用いられる撥絃楽器である。旋律を細かく奏するというより、撥によって拍節や句切れを示し、合奏の構造を支える役割を担う。舞楽の伴奏では通常用いられない[2]。
楽箏は、唐楽の管絃で用いられる箏であり、楽琵琶とともに両絃を構成する。楽琵琶と同じく、旋律を独立して奏するよりも、楽曲の拍節や流れを支える役割が大きい[2]。
和琴は、日本古来の琴の系統を引く楽器であり、国風歌舞で重要な役割を担う。神楽歌などでは、歌や笏拍子とともに用いられ、唐楽の管絃とは異なる響きを形成する[11]。
打楽器
[編集]雅楽の打楽器には、鞨鼓、太鼓、鉦鼓、三ノ鼓、笏拍子などがある。
鞨鼓は、唐楽の管絃や左方舞で用いられる締太鼓であり、合奏の開始や句切れ、拍節を示す重要な楽器である。管絃では鞨鼓、太鼓、鉦鼓が三鼓を構成する[2]。
太鼓は、管絃では釣太鼓、舞楽では大太鼓が用いられる。舞楽の大太鼓は、音響だけでなく舞台上の視覚的要素としても重要であり、大鉦鼓とともに舞台空間を構成する。
鉦鼓は、金属製の打楽器で、管絃や舞楽で拍節を示す。舞楽では大鉦鼓が用いられ、大太鼓とともに舞台上に配置される。
三ノ鼓は、高麗楽系の右方舞で用いられる鼓であり、左方舞の鞨鼓とは異なる右方のリズムを特徴づける。笏拍子は、歌物や国風歌舞で用いられ、歌唱の拍節を示す[11]。
調子・音律・拍子
[編集]雅楽には、中国音楽理論に由来する音律・調子の体系が取り入れられている。唐楽では、壱越調、平調、双調、黄鐘調、盤渉調、太食調の六調子が伝えられる。これらは、楽曲分類や演奏上の調性を示す基本的な枠組みである[1]。
高麗楽には、高麗壱越調、高麗平調、高麗双調などがある。唐楽の六調子とは体系が異なり、右方舞としての高麗楽の曲目分類に関わる[12]。
雅楽の拍節は、西洋音楽の小節や拍子と単純に対応するものではない。楽曲には、延拍子、早拍子、只拍子、八多良拍子など、曲種や伝承に応じた拍節の型がある。管絃ではゆるやかで間を大きく取る演奏が行われるのに対し、舞楽では舞人の所作に合わせて、より明確で力強い拍節感が求められる[2]。
雅楽では、楽曲の進行や構成を説明する語として、序破急も用いられる。序破急は、楽曲や舞の進行がゆるやかに始まり、展開し、終結へ向かう構成感を示す語であり、雅楽だけでなく、後世の日本芸能にも広く影響を与えた。
唱歌・楽譜・口伝
[編集]雅楽の伝承では、楽譜だけでなく、唱歌、口伝、身体的な稽古が重要な役割を果たす。唱歌は、楽器の旋律や奏法を声に出して覚える方法であり、篳篥、龍笛、笙、琵琶、箏など、楽器ごとに異なる唱法がある。
楽譜は、音高、拍節、反復、奏法などを示す手がかりであるが、楽譜だけで実際の演奏を完全に再現することはできない。旋律の揺れ、間、息遣い、装飾、合奏上の呼吸は、師弟間の稽古や口伝を通じて伝えられる。
舞楽では、楽譜に対応する音の伝承だけでなく、舞振り、足使い、装束、面、舞具の扱いも一体として伝えられる。そのため、雅楽の伝承は、音楽的知識、身体技法、儀礼作法、装束・舞台理解を含む総合的な稽古体系である[6]。
演奏様式
[編集]雅楽の演奏は、西洋音楽のように指揮者が全体を統率する合奏とは異なり、奏者相互の呼吸や拍節感によって進められる。管絃では、篳篥、龍笛、笙、打楽器、絃楽器がそれぞれ異なる役割を担いながら、ゆるやかな時間感覚の中で合奏を形づくる[2]。
管絃と舞楽では、同じ唐楽に属する曲でも奏法や響きが異なる。管絃では、旋律や余韻を重視した比較的ゆるやかで繊細な演奏が行われる。一方、舞楽では、舞人の動きに合わせ、より明確で力強い演奏が求められる[2]。
雅楽の演奏では、各楽器が同じ旋律を完全に一致して奏するのではなく、篳篥、龍笛、笙などがそれぞれの音域・奏法・装飾によって旋律を重ねる。これにより、単旋律的でありながら多層的な響きが生まれる[2]。
また、雅楽では、曲を別の調子へ移して演奏する渡し物や、楽曲の一部を抜き出して演奏する形式もみられる。こうした演奏習慣は、宮廷儀礼や御遊、舞楽上演の場面に応じて発達した。
歴史
[編集]古代の歌舞と外来楽舞
[編集]日本列島には、外来楽舞の伝来以前から、祭祀や宮廷儀礼に関わる歌舞が存在した。神楽歌、東遊、大和歌、久米歌などの国風歌舞は、こうした在来の祭祀歌舞が宮廷儀礼の中で整えられたものとされる。一方で、5世紀以降、中国大陸・朝鮮半島などとの交流を通じて、外来系の音楽・舞が日本に伝来した[1][17]。
日本における外来音楽の古い記録として、『日本書紀』には、允恭天皇の崩御に際して新羅王が楽人を遣わしたとする記事がある。『宮内庁楽部 雅楽の正統』では、これを日本における外来音楽演奏の最古の記録として紹介し、允恭天皇の葬送において新羅の楽人が奏楽したことを、雅楽伝来史の出発点の一つとして位置づけている[18][19]。
554年(欽明天皇15年)には、百済から楽人が来朝したとされる。仏教が朝鮮半島を経て日本へ伝わる時期には、学術・医術・暦法などとともに楽舞も伝来し、百済楽、新羅楽、高麗楽などの朝鮮半島系楽舞が受容された。これらは後に三韓楽または三国楽と総称され、雅楽寮の制度の中で伝習されることになった[17][19]。
612年(推古天皇20年)には、百済人の味摩之が伎楽を伝えたとされる。伎楽は、仮面を用いる古代の舞踏劇であり、野外で行われる行道や滑稽な所作を含む芸能であった。大和国桜井で少年たちに伎楽舞を教えたという伝承は、古代日本において外来芸能が寺院や宮廷の儀礼文化に取り込まれていく過程を示すものとされる[19][20]。
675年(天武天皇4年)には、楽人が子弟に歌唱、楽器、舞の技芸を伝えるよう命じられたとされる。このような伝習命令は、楽舞が一時的な外来芸能としてではなく、特定の家や集団によって継承される技芸として位置づけられていく過程を示している[17][19]。
奈良時代の雅楽寮と仏教儀礼
[編集]701年(大宝元年)の大宝律令により、宮廷の音楽・舞を司る機関として雅楽寮が設置された。雅楽寮は治部省に属し、宮廷儀礼、饗宴、祭祀、外国使節の接遇などに関わる楽舞を管理した。発足当初の雅楽寮では、日本古来の歌舞を担う和楽と、唐楽、三韓楽、伎楽など外来系楽舞があわせて扱われた[21][17]。
雅楽寮は、律令国家における音楽・舞踊の専門機関であり、師と生を置いて楽舞の伝習を制度化した。大宝令の段階では、和楽、唐楽、三韓楽、伎楽などにそれぞれ担当者が置かれ、宮廷における儀礼音楽・舞踊を支える大規模な組織であった。のちには、唐楽、百済楽、高麗楽、新羅楽などの歌舞を習う人数も定められ、外来楽舞は制度的に伝習された[7][19]。
奈良時代には、仏教儀礼と外来楽舞が深く結びついた。四天王寺、東大寺、薬師寺、興福寺などの大寺院では、法会や祭祀において楽舞が行われ、寺院に属する楽人集団も伝承を担った。伎楽は、仏生会や伎楽会など寺院の法会で演じられ、仏教儀礼を視覚的・音楽的に荘厳する芸能として用いられた[20]。
735年(天平7年)には、唐に留学した吉備真備が『楽書要録』や銅律管を持ち帰ったとされる。『楽書要録』は中国の音楽理論を伝える書であり、銅律管は音律の基準に関わる器物であった。これらは、古代日本における外来音楽理論の受容を示す資料として位置づけられる[19]。
736年(天平8年)には、林邑僧の仏哲らが林邑楽を伝えたとされる。林邑楽は、インド・東南アジア方面に由来する楽舞とされ、のちに唐楽の系統に組み込まれた。林邑楽に含まれるとされる曲には、菩薩、抜頭、蘭陵王、迦陵頻、安摩、胡飲酒など、後世の舞楽曲として知られるものがある[17][19]。
752年(天平勝宝4年)の東大寺盧舎那仏像の開眼法要では、声明、伎楽、度羅楽、唐楽、林邑楽、高麗楽、大歌舞、久米舞など、多様な楽舞が奉納された。これは、奈良時代における国家的な仏教儀礼と外来・在来の楽舞が結びついた大規模な事例である。『宮内庁楽部 雅楽の正統』の年表も、東大寺盧舎那仏開眼供養において、国風歌舞の五節舞・久米舞とともに、唐楽、渤海楽、呉楽などが奏上されたことを記している[17][19]。
正倉院には、聖武天皇ゆかりの楽器や舞面が納められた。正倉院宝物には、和琴、箏、琵琶、五絃琵琶、新羅琴、尺八、横笛、笙、竿、鼓、方響など、奈良時代の国際的な音楽文化を伝える楽器が含まれる。また、伎楽面や舞楽関係の資料も伝えられており、古代日本における仏教儀礼、外来芸能、宮廷文化の関係を知るうえで重要な資料となっている[22][17]。
このように、奈良時代の雅楽は、単に宮廷内部の音楽ではなく、律令国家の儀礼制度、仏教法会、外交、寺院文化、正倉院に代表される国際的な物質文化と深く結びついていた。古代に伝来した多様な楽舞は、その後すべてが同じ形で残ったわけではないが、楽器編成、曲目、舞、調子の整理を経て、後世の唐楽、高麗楽、国風歌舞へと再編されていった[1][17]。
平安時代の宮廷文化と雅楽
[編集]平安時代になると、雅楽は仏教儀礼を荘厳する音楽にとどまらず、宮廷儀式、年中行事、饗宴、御遊、私的な合奏の場などで演奏され、王朝貴族の教養として定着した[23][17]。唐楽・高麗楽などの外来系楽舞は、宮廷社会の中で再編され、左方・右方の体系や、管絃・舞楽の形式が整えられていった。
平安前期には、唐楽を中心とする左方と、高麗楽を中心とする右方の区別が明確化した。左方舞と右方舞は、曲目、舞振り、装束、楽器編成の違いによって区別され、宮廷儀礼や饗宴の場で対になるように演奏されることもあった[12][2]。唐楽には、舞を伴わない器楽合奏である管絃と、舞を伴う舞楽の双方があり、高麗楽は主に右方舞として伝承された。
雅楽寮は律令制下で宮廷楽舞を所管したが、平安時代が進むにつれて、その役割は変化していった。宮廷儀礼における奏楽の実務は、雅楽寮の官人だけでなく、衛府の官人や内裏に置かれた楽所の楽人にも担われるようになった[24]。衛府は本来、天皇の警護や儀仗を担う機関であったが、儀式や行幸に随行するなかで奏楽にも関わり、雅楽伝承の担い手として重要性を増した。
948年(天暦2年)には、宮中の儀礼に応じて楽人が詰める楽所が内裏に常設されたとされる[24]。これにより、雅楽の伝承は律令官司としての雅楽寮だけでなく、宮廷儀礼に密着した楽所を中心に行われるようになった。楽所は、後世の楽人集団や楽家の形成にもつながる重要な伝承拠点となった。
平安時代には、国風歌舞も宮廷儀礼や神事と結びついて伝承された。神楽歌、東遊、大和歌、久米歌、五節舞などは、唐楽・高麗楽とは異なる系統の歌舞として位置づけられた[9][2]。御神楽は宮中神事において奏される代表的な国風歌舞であり、夜間に行われる厳粛な神事として伝承された。東遊は神社祭礼や社頭儀礼でも奏され、宮廷と神社祭祀を結ぶ芸能として機能した。
また、平安時代には催馬楽や朗詠も宮廷社会で発達した。催馬楽は民間歌謡に由来する歌詞を雅楽器の伴奏で歌う声楽曲であり、朗詠は漢詩文に旋律を付して詠じる声楽曲である[1][16]。これらは管絃や御遊の場で演奏され、宮廷人の教養や饗宴文化と深く結びついた。
雅楽は、王朝貴族の文化的素養としても重視された。貴族は笛、琵琶、箏、和琴などの演奏、催馬楽・朗詠の歌唱、管絃の作法を身につけ、儀礼や饗宴、私的な集まりで演奏を行った[14][15]。『枕草子』や『源氏物語』などの王朝文学にも、楽器演奏、御遊、朗詠、舞楽の場面が描かれ、雅楽が平安貴族社会の美意識や教養体系の一部であったことを示している[14]。
源博雅は笛や琵琶に関する逸話で知られ、藤原公任は和歌・漢詩・管絃・有職故実に通じた文化人として位置づけられる。藤原師長は琵琶の名手として知られ、後世の音楽伝承にも大きな影響を与えた[25]。こうした人物の存在は、雅楽が専門楽人だけでなく、貴族社会の内部でも高度な教養として担われていたことを示している。
中世の楽所・楽家・楽書
[編集]中世に入ると、律令制の変質や宮廷社会の変容により、雅楽寮の制度的な機能は次第に弱まった。一方で、雅楽は宮廷儀礼、寺社の法会、祭礼、武家儀礼などの場で引き続き必要とされ、楽所や楽家による家職的な伝承を通じて維持された[26]。
楽所は、宮廷や寺社において奏楽を担う楽人の集団・組織である。内裏の楽所をはじめ、寺社にも楽所が置かれ、儀礼や祭礼における奏楽を担当した。楽所に属する楽人は、特定の楽器、舞、歌を家業として継承し、宮廷・寺社・地域社会の儀礼を支えた[26][27]。
この時期には、楽人の家職化が進み、特定の家が特定の技芸を担うようになった。左方の舞や楽を伝えた狛氏、右方の楽や国風歌舞に関わった多氏、笙を家業とした豊原氏、篳篥や楽書に関わった安倍氏などは、雅楽伝承を担った代表的な楽家として知られる[26]。これらの楽家は、楽器・舞・楽曲・儀礼作法を世襲的に伝え、後世の雅楽伝承の基盤となった。
楽家による伝承は、口伝や実技だけでなく、楽書の編纂によっても支えられた。楽書は、楽曲、楽器、奏法、舞振り、装束、面、儀礼次第、由来伝承などを記した文献であり、雅楽の知識を体系化し、後世へ伝える役割を果たした[26]。
狛近真の『教訓抄』は、鎌倉時代に成立した代表的な楽書であり、舞楽曲の由来、奏法、装束、舞の作法などを記した[28]。『教訓抄』は、宮廷雅楽や寺社楽舞の中世的な伝承を知るうえで重要な資料であり、後世の楽書にも影響を与えた。
室町時代には、豊原統秋によって『体源抄』が編纂された[28]。『体源抄』は、雅楽の歴史、楽器、楽理、曲目、人物、故実などを広く扱う大部の楽書であり、中世までに蓄積された雅楽知識を集成した文献として位置づけられる。
近世には、安倍季尚によって『楽家録』が著された[28]。『楽家録』は、全50巻から成る大部の雅楽書で、楽曲、楽器、舞楽装束、舞楽面、故実、系譜などを幅広く扱う。中世から近世にかけての雅楽知識を総合的に整理した文献であり、近世雅楽の百科事典的な性格をもつ。
中世の雅楽伝承では、宮廷だけでなく、寺社も重要な拠点となった。南都の興福寺・春日社周辺、天王寺の四天王寺、京都の宮廷周辺などでは、それぞれ楽人集団が活動し、法会や祭礼において雅楽・舞楽を演奏した[8][29]。これらの伝承は、のちに京方、南都、天王寺の三方楽所へとつながっていく。
中世の雅楽は、律令国家の制度としての雅楽寮から、楽所・楽家・寺社の法会を中心とする伝承へと重心を移した。この変化によって、雅楽は宮廷儀礼にとどまらず、寺社の祭礼や地域の儀礼文化にも根づき、近世の三方楽所体制へと継承されていった[26][29]。
近世の三方楽所と紅葉山楽人
[編集]中世後期には、応仁の乱などの戦乱により、京都の宮廷社会とともに雅楽の伝承も大きな打撃を受けた。京方の楽人だけでは朝廷儀式の奏楽を十分に維持することが難しくなり、天王寺や南都に伝わる楽人の力を借りて再興が図られた[8][29]。
天正年間には、正親町天皇が四天王寺に属する天王寺楽人を召し出し、京方楽人を補強した。さらに文禄年間には、後陽成天皇が南都楽人を召し出し、朝廷儀式における奏楽体制を整えた。こうして、京方、南都、天王寺の三方の楽人が朝廷儀式に関わる体制が形成され、これを三方楽所という[8][29]。
三方楽所は、近世の宮廷雅楽を支えた中心的な伝承組織であった。京方楽人は京都の朝廷儀式に関わり、南都楽人は興福寺・春日大社周辺の法会・祭礼と深く結びつき、天王寺楽人は四天王寺の聖霊会などに関わった。三方の楽人は、それぞれの地域的・寺社的基盤を持ちながら、朝廷儀式においては合同で奏楽する体制を担った[30]。
江戸時代には、雅楽は朝廷儀式だけでなく、幕府関係の法要や祭礼にも関わった。徳川家康の法要などに際して三方楽所の楽人が江戸へ下向し、幕府から扶持や石高を与えられる例もあった[31]。寛永年間には、徳川家光が三方の楽人を江戸へ召し出し、江戸城紅葉山の家康廟や日光東照宮の祭礼で奏楽させた。これら江戸に常駐した楽人は、のちに紅葉山楽人と呼ばれた[31][32]。
紅葉山楽人は、関西の禁裏楽人のうち、江戸幕府の招聘に応じて江戸へ移住した楽人を嚆矢とし、江戸城紅葉山の東照宮・将軍廟、寛永寺、上野東照宮、増上寺などの祭礼・法要で奏楽した[32]。寺内直子の研究によれば、紅葉山楽人は篳篥三名、笛三名、笙三名の計九名を基本とする任用枠をもち、家による継承が困難な場合には、家にこだわらず職掌を継ぐ実態もあった[32]。
紅葉山楽人の成立により、近世の雅楽伝承は京都の朝廷、南都・天王寺の寺社、江戸幕府の祭祀空間を結ぶものとなった。近世雅楽は、宮廷の伝統芸能であると同時に、寺社の法会、幕府儀礼、地域祭礼と結びついた複層的な伝承体系として維持された[8][33][30]。
明治維新と雅楽局
[編集]明治維新後、雅楽は近代国家の宮中儀礼に組み込まれる形で大きく再編された。東京奠都により宮中儀礼の中心が京都から東京へ移ると、三方楽所と紅葉山楽人の楽人たちは東京へ集められ、新政府の制度のもとで宮中奏楽を担うことになった[34][35]。
1870年(明治3年)には、太政官のもとに雅楽局が設けられた[34][36]。雅楽局には、京方、南都、天王寺、紅葉山に由来する楽人が集められ、それぞれが伝えてきた楽曲、楽譜、奏法、舞振りを統一する必要が生じた。この再編は、近世まで地域や家ごとに伝承されていた雅楽を、近代国家の宮中儀礼にふさわしい標準的な体系へ整理する作業でもあった[34][37]。
明治期の雅楽局では、雅楽だけでなく西洋音楽も伝習された。雅楽伶人は、宮中儀礼における雅楽演奏を担う一方で、洋楽器の習得、洋楽隊の形成、国歌・儀礼音楽の整備にも関わった[38][39]。このため、明治期の雅楽再編は、伝統芸能の保存であると同時に、近代日本の音楽制度形成とも密接に関係していた。
雅楽局は、その後の制度改編を経て、式部寮雅楽課、宮内省式部職雅楽部へとつながった[36]。宮内省式部職雅楽部は、宮中儀式での奏楽、楽曲・舞の伝習、楽譜の整理、洋楽の演奏などを担い、近代以降の雅楽伝承の中心機関となった。この流れは、戦後の宮内庁式部職楽部へと継承されている[40][41]。
明治撰定譜と近代雅楽
[編集]明治期の雅楽再編において、特に重要なのが明治撰定譜の編纂である。明治維新後、東京に集められた楽人たちは、三方楽所や紅葉山楽人としてそれぞれ異なる伝承を保持していた。そのため、宮中儀礼で用いる楽曲を標準化し、演奏体系を統一する必要があった[34][39]。
明治撰定譜は、1876年(明治9年)と1888年(明治21年)の二度にわたって編纂された[39][42]。選定にあたっては、楽家に伝わる曲のうち、三管の譜が揃っているものが重視されたとされる[42]。これにより、現行雅楽の曲目体系が整えられ、唐楽・高麗楽・歌物などの演奏伝承が近代的な制度のもとで整理された。
明治撰定譜に採られた曲は、現在の宮中雅楽における基本的な現行曲として扱われる。一方で、撰定から外れた曲、曲名のみが伝わる曲、古譜の一部が残る曲、伝承が途絶えた曲もあり、これらは遠楽・亡失曲・廃絶曲などとして扱われることがある。近現代には、こうした曲を古楽譜・楽書・絵画資料に基づいて復曲する試みも行われている[42][3]。
明治撰定譜の成立は、雅楽にとって単なる楽譜編纂ではなく、近世まで多様に伝えられてきた楽曲・奏法・舞の伝承を、近代国家の宮中儀礼のもとで標準化する作業であった。その一方で、撰定から外れた曲や地域・寺社に残る伝承は、近代以降の復曲研究や地域雅楽研究の対象ともなった[34][36]。
戦後・現代の継承
[編集]第二次世界大戦後、宮内省は宮内府を経て宮内庁へ改組され、雅楽は宮内庁式部職楽部によって継承された[40][41]。楽部は、宮中儀式や宮内庁行事における奏楽を担うとともに、公開演奏や海外公演を通じて雅楽の紹介・普及にも関わっている[40][41]。
宮内庁式部職楽部が伝承する雅楽は、国の重要無形文化財に指定されている。楽部の楽師は、雅楽の保持者として総合認定を受けており、宮中雅楽の演奏・舞・伝習を担っている[4]。また、2009年(平成21年)にはGagakuとしてユネスコの無形文化遺産の代表一覧表に記載された[5]。
現代の雅楽伝承は、宮内庁式部職楽部に限られない。春日大社、四天王寺、住吉大社などの寺社では、祭礼や法会において雅楽・舞楽が継承されている。地域の祭礼、民間雅楽団体、大学・研究機関、復曲団体なども、演奏・研究・教育普及に関わっている[3][8]。
近現代には、古楽譜や楽書に基づく復曲、正倉院楽器や古代楽器の復元、現代作曲家による雅楽器を用いた新作も行われている。これらは、古典雅楽の保存とは異なる活動であるが、雅楽の音響、楽器、時間感覚、儀礼性を新たな文脈で捉え直す試みとして位置づけられる[3][42]。
このように、現代の雅楽は、宮中儀礼における古典伝承、寺社・地域における祭礼伝承、研究に基づく復曲、現代音楽としての創作という複数の層をもって展開している。記事中では、これらを一括して同一視せず、成立事情や伝承主体の違いを区別して扱う必要がある[3]。
宮廷行事・神事・法会における雅楽
[編集]雅楽は、宮廷儀式、神事、仏教法会、饗宴などの場で演奏・上演されてきた。単なる鑑賞用の音楽ではなく、儀礼の進行、場の荘厳、祝賀、鎮魂、神仏への奉仕、身分秩序の表現などと結びついた芸能であった[43]。平安時代以降、年中行事や儀式の次第が有職故実として整えられるなかで、管絃、舞楽、国風歌舞、催馬楽、朗詠などは、それぞれの場面に応じて用いられた[43]。
宮廷年中行事
[編集]宮廷の年中行事では、雅楽は祝賀や儀礼の威儀を表す重要な役割を担った。正月行事では、元日節会、白馬節会、踏歌節会などが行われ、管絃や舞楽が奏された[44]。元日節会では、万歳楽、太平楽、蘭陵王、地久、貴徳、曽利など、左方・右方の舞楽が奏され、年始の祝賀儀礼を彩った[45]。
踏歌節会では、歌舞を伴って地を踏む所作が行われた。踏歌は、地を踏みならす身体動作と歌舞が結びついた儀礼であり、年始の祝賀や予祝的な意味をもつ行事として位置づけられる[46]。白馬節会は、正月七日に天皇が白馬を御覧になる儀式であり、年始の邪気を払う行事として行われた[47]。
新嘗祭や大嘗会では、五節舞が重要な役割を担った。五節舞は、国風歌舞の一つであり、宮中儀礼と結びついた女舞として知られる[10]。平安時代には、五節舞姫の装束や舞姿も王朝文化の関心を集め、有職書や絵巻にもその姿が描かれた[48]。
相撲節会のような競技を伴う宮廷行事でも、雅楽は用いられた。相撲節会では、諸国から集められた相撲人が競い、勝負の場を高揚させる楽舞が演奏された[49]。雅楽は静的な儀礼音楽にとどまらず、武芸・競技・饗宴を伴う宮廷行事にも関わっていた。
神事と国風歌舞
[編集]神事においては、神楽歌、東遊、大和歌、久米歌、五節舞などの国風歌舞が重要な役割を担った。国風歌舞は、唐楽・高麗楽のような外来系楽舞とは異なり、日本列島の祭祀歌舞に由来する系統として位置づけられる[9][50]。宮中神事や神社祭礼において、歌、舞、楽器演奏が神前に奉納された。
御神楽は、宮中神事における代表的な国風歌舞である。神楽歌、神楽笛、和琴、笏拍子などを用い、神前で歌舞を奏する。御神楽は、宮中の祭祀空間において神を迎え、鎮め、もてなす儀礼として行われた[51]。
東遊は、神社祭礼や社頭儀礼で奏される風俗舞として知られる。賀茂祭、春日社、石清水八幡宮、日吉社などへの参詣や社頭儀礼では、東遊が奏され、その後に左方・右方の舞楽が演奏される例もあった[50]。東遊は、国風歌舞と外来系舞楽が同じ儀礼空間で用いられる例として重要である。
寺社や地域社会においても、雅楽は祭礼と結びついて伝承された。春日大社の春日若宮おん祭、四天王寺の聖霊会、住吉大社の祭礼などでは、雅楽・舞楽が祭礼の構成要素として演奏され、宮廷雅楽とは異なる寺社・地域の伝承を形成してきた[8][52]。
仏教法会と雅楽・声明
[編集]仏教法会においても、雅楽・舞楽は重要な役割を担った。奈良時代の東大寺盧舎那仏像の開眼法要では、声明、伎楽、度羅楽、唐楽、林邑楽、高麗楽、大歌舞、久米舞など多様な楽舞が奉納され、国家的な仏教儀礼を荘厳した[53][17]。こうした法会における楽舞は、仏教の受容と外来芸能の伝来が結びついたことを示している。
平安時代以降、仏教法会では声明と雅楽が組み合わされるようになった。声明は、経文や偈頌に旋律を付して唱える仏教音楽であり、雅楽器や舞楽とともに法会の荘厳を担った[54]。梵音、散華、唄、錫杖などの法要次第は、楽を伴う形式として整えられ、四箇法要として大成された[55]。
法華八講でも、舞楽は仏教儀礼の一部として用いられた。迦陵頻、胡蝶、蘭陵王、曽利、還城楽などが童舞として演じられる例があり、舞楽は仏教的な意匠や象徴性をもって法会の場を飾った[56]。迦陵頻や胡蝶は、童舞としての視覚的な華やかさと仏教的な意味を兼ね備えた演目であり、法会における舞楽の代表例といえる[56][57]。
寺院の法会における雅楽は、宮廷儀礼の雅楽とは異なる伝承環境をもった。南都の大寺院、四天王寺、その他の寺社では、法会・祭礼を通じて楽人集団が活動し、雅楽・舞楽の伝承を担った[8][27]。こうした寺社伝承は、のちの南都楽所・天王寺楽所などにもつながっていく。
饗宴・御遊・私的演奏
[編集]雅楽は、公的な儀礼だけでなく、饗宴や私的な合奏の場でも演奏された。平安貴族社会では、管絃、催馬楽、朗詠などが御遊の場で楽しまれ、貴族の教養や社交の一部をなした[14]。笛、琵琶、箏、和琴などの演奏は、貴族男女の文化的素養として重視された。
御遊では、管絃の合奏に加え、催馬楽や朗詠が歌われることもあった。催馬楽は民間歌謡を宮廷化した声楽曲であり、朗詠は漢詩文を旋律に乗せて詠じる歌曲である[1][16]。これらは、儀礼音楽としてだけでなく、王朝貴族の趣味・教養・交流を支える音楽文化であった。
『枕草子』や『源氏物語』などの王朝文学には、管絃、朗詠、楽器演奏、舞楽、御遊の場面が描かれる[14]。これらの文学作品は、雅楽が宮廷社会の儀礼だけでなく、美意識、恋愛、社交、教養と結びついていたことを示す資料でもある。
舞楽と視覚要素
[編集]舞楽は、雅楽の演奏に合わせて舞われる舞を伴う芸能である。舞楽では、音楽だけでなく、舞人の所作、装束、面、舞具、舞台上の配置が一体となって意味を形づくる。曲目ごとに舞の性格、人数、装束、舞具が定められており、儀礼空間において視覚的な荘厳を担った[13][15]。
舞楽は、外来系楽舞を日本の宮廷社会で受容・再編する過程で体系化された。唐楽系の舞は左方舞、高麗楽系の舞は右方舞と呼ばれ、演奏される楽器、装束の色彩、舞振り、舞台上の動きに違いがある。宮廷行事、神事、仏教法会、饗宴などの場では、こうした舞楽が祝賀、鎮護、荘厳、娯楽の機能を担った[12][43]。
左方舞・右方舞
[編集]舞楽は、系統によって左方舞と右方舞に大別される。左方舞は唐楽系の楽舞に伴う舞であり、右方舞は高麗楽系の楽舞に伴う舞である。左方舞と右方舞は、単に舞台上の左右を示すだけでなく、楽曲の系統、楽器編成、装束、舞振りの違いを示す基本的な区分である[12][2]。
左方舞では、笙・篳篥・龍笛を中心とする唐楽系の管楽器に、鞨鼓・大太鼓・大鉦鼓などを加えた編成が用いられる。装束は赤系統を基調とすることが多く、唐風の意匠をもつ装束や舞具が用いられる。代表的な曲には、蘭陵王、万歳楽、太平楽、春鶯囀、青海波、迦陵頻などがある[2][13]。
右方舞では、篳篥・高麗笛・三ノ鼓・大太鼓・大鉦鼓などを中心とする高麗楽系の編成が用いられる。装束は緑または青系統を基調とすることが多く、左方舞とは異なる舞振りや拍節感をもつ。代表的な曲には、納曽利、蘇利古、地久、貴徳、胡蝶、狛桙などがある[2][13]。
舞楽では、左方舞と右方舞を組み合わせて演じることもあり、この組み合わせは番舞と呼ばれる。たとえば、蘭陵王と納曽利、迦陵頻と胡蝶のように、左方と右方の曲が対として扱われる例がある。番舞は、左右の楽舞を対照的に配置することで、宮廷儀礼や饗宴における均衡と秩序を視覚的にも表した[56]。
舞の分類
[編集]舞楽は、舞人の人数、舞の速度、所作の性格、舞人の年齢や役柄によって分類される。舞人の人数による分類には、一人舞、二人舞、四人舞、六人舞などがあり、曲目ごとに定められた人数で舞われる[2][13]。
舞の性格による分類には、文舞、平舞、武舞、走舞、童舞などがある。文舞や平舞は、比較的ゆるやかで典雅な所作を中心とする舞であり、宮廷的な優雅さを示すものとされる。武舞は、太刀、鉾、盾などの武具を持って舞う曲を含み、威儀や武勇を表現する。走舞は、動きが速く、力強い所作をもつ舞であり、面や裲襠装束を用いる曲もある。童舞は、少年によって舞われる舞で、迦陵頻や胡蝶など、法会や祝賀の場で用いられる曲にみられる[13][15]。
舞楽の所作は、単なる舞踊表現ではなく、曲の由来、役柄、儀礼上の意味と結びついている。たとえば、蘭陵王は仮面を用いる一人舞として知られ、武将の勇姿を表す曲とされる。太平楽は武具を持って舞う武舞であり、国家的な祝賀や威儀を示す曲として扱われてきた。迦陵頻や胡蝶は、童舞として仏教法会の荘厳と結びついた[56][57]。
装束
[編集]舞楽では、装束が舞の性格や役柄を示す重要な要素である。舞楽装束には、襲装束、蛮絵装束、裲襠装束、別装束などがあり、曲目ごとに用いる装束が定められている。装束の色彩、文様、冠、袍、裾、袖、舞具は、舞の系統や性格を視覚的に表す[13][15]。
襲装束は、平舞などで用いられる装束で、唐風の意匠をもつ。左方舞では赤系統、右方舞では緑または青系統の装束が用いられることが多く、左右の区別が視覚的にも示される。舞楽の典雅な印象を形づくる代表的な装束である[58]。
蛮絵装束は、衛府の装束に由来する要素をもつ舞楽装束である。文様には獅子や鳥獣などが用いられ、東遊の陪従装束にも関係する。舞の途中で片肩を脱ぐ所作を伴う曲もあり、装束は舞振りと結びついた演出要素でもあった[59]。
裲襠装束は、走舞などに用いられる装束で、身体の動きを大きく見せる構造をもつ。打毬楽、陪臚、狛桙、埴破など、動きのある舞や武具・舞具を用いる曲と結びついている。裲襠装束は、走舞の力強さや異国的な印象を強調する視覚的要素となる[60]。
別装束は、特定の曲のために用いられる特殊な装束である。迦陵頻、胡蝶、青海波、太平楽などには、それぞれ固有の意匠をもつ装束が用いられる。迦陵頻では鳥を思わせる装束、胡蝶では蝶を象徴する意匠、青海波では波文様を含む装束が舞の主題と結びついている[61]。
面と舞具
[編集]舞楽では、面や舞具も重要な視覚的要素である。面は、役柄や異国性、神仏・霊的存在、武将、動物的存在などを表すために用いられる。蘭陵王の面は舞楽面の代表例であり、勇壮な武将の姿を視覚的に示す。納曽利では龍または蛇を思わせる面が用いられ、曲の性格を強調する[13]。
伎楽で用いられた伎楽面は、舞楽面とは異なる系統に属するが、奈良時代の仏教芸能と外来文化の受容を伝える重要な資料である。正倉院には、師子、治道、呉公、金剛、迦楼羅、昆崙、呉女、婆羅門、酔胡王など、多様な役柄を示す伎楽面が伝えられている。これらは、古代の仮面芸能が寺院の法会や国家的な仏教儀礼と結びついていたことを示す[22]。
舞具には、太刀、鉾、盾、桴、撥、球杖、櫂、羽根、蝶の翅を象徴する道具などがある。武舞では武具が威儀や武勇を示し、走舞では動きの大きさを強調する道具が用いられる。童舞や仏教的意匠をもつ曲では、舞具が曲の象徴性を補強する[13]。
このように、舞楽は音楽だけでなく、装束、面、舞具、舞台配置を含む総合的な視覚芸能である。曲目を理解するには、楽曲の旋律や拍節だけでなく、舞人の身体、衣装、面、道具、儀礼空間の中での位置づけをあわせて見る必要がある[13][6]。
曲目
[編集]

雅楽の曲目は、成立・伝承・演奏形態によって、国風歌舞、唐楽、高麗楽、催馬楽、朗詠などに分けられる。また、明治期の整理以後、宮内庁式部職楽部で通常演奏される曲目は、明治撰定譜に基づく現行曲として位置づけられる。一方で、曲名や古譜は伝わるが通常演奏されない曲、伝承が失われた曲、近現代に復曲された曲も存在する[1][42][39]。
雅楽の曲目を扱う際には、現行演奏される曲だけでなく、古楽書・古楽譜に記録された曲、寺社や地域に残る伝承曲、近現代の復曲や新作を区別する必要がある。とくに、明治撰定譜以降の宮内庁式部職楽部の伝承は、現代の雅楽理解に大きな影響を与えている[34][39]。
現行曲と明治撰定譜
[編集]現在、宮内庁式部職楽部で伝承される古典雅楽の曲目は、明治期に編纂された明治撰定譜に大きく基づいている。明治維新後、三方楽所や紅葉山楽人に由来する楽人が東京に集められたが、それぞれの家や地域には異なる楽譜・奏法・曲目伝承があった。そのため、宮中儀礼に用いる雅楽を統一するため、楽曲の整理と標準化が行われた[34][37]。
明治撰定譜は、1876年(明治9年)と1888年(明治21年)の二度にわたって編纂された[39][42]。選定にあたっては、楽家に伝わる曲のうち、三管の譜が揃っているものが重視されたとされる[42]。これにより、現行雅楽の曲目体系が整えられ、唐楽・高麗楽・歌物などの演奏伝承が近代的な制度のもとで整理された。
明治撰定譜に採られた曲は、現在の宮中雅楽における基本的な現行曲として扱われる。一方で、撰定から外れた曲、曲名のみが伝わる曲、古譜の一部が残る曲、伝承が途絶えた曲もあり、これらは遠楽・亡失曲・廃絶曲などとして扱われることがある。近現代には、こうした曲を古楽譜・楽書・絵画資料に基づいて復曲する試みも行われている[42][3]。
唐楽の曲目
[編集]唐楽は、左方に属する外来系楽舞であり、管絃と舞楽の双方で演奏される。唐楽の曲目は、壱越調、平調、双調、黄鐘調、盤渉調、太食調の六調子に分類される。管絃として演奏される曲、舞を伴う舞楽曲、管絃と舞楽の双方で伝承される曲がある[12][2]。
代表的な唐楽曲には、万歳楽、太平楽、蘭陵王、春鶯囀、五常楽、青海波、迦陵頻、抜頭、胡飲酒、安摩、二舞などがある。これらの曲には、祝賀、武舞、童舞、仏教的意匠、王朝文学との関係など、さまざまな性格がみられる[56][13]。
万歳楽や太平楽は祝賀・威儀を示す曲として知られ、蘭陵王は面を用いる一人舞として広く知られる。青海波は『源氏物語』の「紅葉賀」における舞の場面とも結びつけて語られ、迦陵頻は童舞・法会と関係する。こうした代表曲は、唐楽が単なる器楽曲の体系ではなく、舞、装束、文学、儀礼と結びついた総合的な芸能であることを示している[14][56][61]。
高麗楽の曲目
[編集]高麗楽は、右方に属する外来系楽舞であり、現在では主として右方舞として伝承される。唐楽のような管絃形式ではなく、舞を伴う曲として演奏されるのが基本である。高麗楽の曲目は、高麗壱越調、高麗平調、高麗双調などに分類される[12][2]。
代表的な高麗楽曲には、納曽利、蘇利古、地久、貴徳、胡蝶、狛桙、埴破などがある。納曽利は蘭陵王と対になる番舞として知られ、胡蝶は迦陵頻とともに童舞として演じられる。蘇利古、地久、貴徳などは、右方舞の代表的な曲として宮廷行事や法会の中で演奏された[56][13]。
高麗楽では、篳篥、高麗笛、三ノ鼓、大太鼓、大鉦鼓などを用いる。笙、龍笛、鞨鼓、楽琵琶、楽箏を中心とする唐楽管絃とは編成が異なるため、曲目の性格だけでなく、音響や舞台上の印象も異なる。右方舞の装束は緑または青系統を基調とすることが多く、左方舞との対比を形成する[2][13]。
国風歌舞・歌物の曲目
[編集]国風歌舞には、神楽歌、東遊、大和歌、久米歌、五節舞などが含まれる。これらは、日本古来の祭祀歌舞を宮廷儀礼や神事の中で整えたものであり、唐楽・高麗楽とは異なる系統をなす。神楽歌は宮中神事における御神楽で奏され、東遊は神社祭礼や社頭儀礼で演じられた。五節舞は、新嘗祭・大嘗会などと結びついた女舞として知られる[9][62]。
歌物には、催馬楽と朗詠がある。催馬楽は、民間歌謡に由来する歌詞を雅楽器の伴奏で歌う声楽曲であり、呂歌と律歌に分けられる。朗詠は、漢詩文に旋律を付して詠じる声楽曲であり、平安貴族の教養や御遊の文化と深く関わった。催馬楽・朗詠は、楽器伴奏を伴う声楽曲として、管絃や饗宴の場で演奏された[1][14][16]。
番舞
[編集]舞楽には、左方の曲と右方の曲を対にして演じる番舞の考え方がある。番舞では、左方舞と右方舞が互いに対応するように配置され、宮廷儀礼や饗宴において左右の均衡を表した。唐楽と高麗楽の対比は、楽器編成、装束、舞振り、舞台上の進行にも反映された[12][56]。
代表的な番舞の例として、蘭陵王と納曽利、迦陵頻と胡蝶などが挙げられる。蘭陵王は左方の一人舞であり、納曽利は右方の舞として対応する。迦陵頻と胡蝶は、いずれも童舞として演じられ、仏教法会や祝賀の場で対照的な視覚効果をもった[56][57]。
番舞は、単に二曲を続けて演奏する形式ではなく、左右の楽舞を対照させることで、儀礼空間に秩序と均衡を与える演出であった。曲の組み合わせは、伝承や儀礼の目的によって異なり、楽曲の性格、舞人の人数、装束、舞具などとも関係した[56]。
遠楽・亡失曲・復曲
[編集]雅楽の歴史には、現在通常演奏される現行曲だけでなく、伝承が途絶えた曲、古譜や楽書にのみ記録される曲、明治撰定譜に採られなかった曲も含まれる。こうした曲は、遠楽、亡失曲、廃絶曲などと呼ばれることがある[42]。
遠楽・亡失曲には、曲名は伝わるが旋律や舞振りが失われたもの、楽譜の一部だけが残るもの、特定の楽器譜は残るが合奏として再現するには情報が不足するものなど、さまざまな段階がある。そのため、すべてを同じ意味で「失われた曲」と扱うことはできない[42]。
近現代には、古楽譜、楽書、絵巻、寺社資料、正倉院資料などをもとに、こうした曲を復曲・復元しようとする試みが行われてきた。復曲は、現行伝承の曲と同じものではなく、研究に基づいて過去の楽曲を再構成する作業である。したがって、現行雅楽、遠楽・亡失曲、復曲曲、新作雅楽は区別して扱う必要がある[42][3]。
本記事では、代表的な現行曲と曲目体系を概説するにとどめ、個別曲目や遠楽・亡失曲の詳細は、曲目一覧記事や個別曲記事に譲る。
伝承主体
[編集]雅楽は、宮中だけでなく、寺社、地域社会、民間団体、教育研究機関など、複数の場で伝承されてきた。現在、狭義の宮中雅楽を担う中心的な機関は宮内庁式部職楽部であるが、雅楽の歴史的な伝承主体は時代によって変化してきた。古代には雅楽寮、平安時代以降には楽所や楽家、近世には三方楽所、近代には雅楽局・宮内省雅楽部が重要な役割を担った[7][24][8][34]。
宮内庁式部職楽部
[編集]現在の宮中雅楽の中心的な伝承主体は、宮内庁式部職楽部である。楽部は、宮中儀式や宮内庁の行事において雅楽を演奏するほか、公開演奏、海外公演、教育普及にも関わっている[41][40]。宮内庁式部職楽部の楽師は、雅楽の重要無形文化財保持者として総合認定を受けており、管絃、舞楽、国風歌舞、催馬楽、朗詠などの伝承を担っている[4]。
宮内庁式部職楽部の伝承は、明治維新後に三方楽所と紅葉山楽人の楽人が東京へ集められ、雅楽局・宮内省雅楽部を経て形成された近代的な制度の上に成り立っている[34][36]。そのため、現在の宮中雅楽は、古代以来の伝承を直接そのまま保持しているというより、近世までの楽人集団の伝承を明治期に整理・統合した体系として理解される[37][40]。
寺社・地域の伝承
[編集]雅楽は、宮中だけでなく寺社や地域社会にも伝えられてきた。春日大社、四天王寺、住吉大社などでは、祭礼や法会において雅楽・舞楽が演奏される。これらの寺社伝承は、宮中雅楽と共通する楽曲・楽器・舞を用いながらも、それぞれの祭礼次第や地域的な歴史の中で独自の性格をもつ[8][52]。
南都の興福寺・春日社周辺では、南都楽所の楽人が法会や祭礼の奏楽を担った。四天王寺では、聖霊会などの法会に雅楽・舞楽が伝えられ、天王寺楽所の伝承と結びついた。こうした寺社の楽人集団は、近世には三方楽所の一翼を担い、朝廷儀式にも関わった[8][27]。
寺社・地域の雅楽は、文化財としての宮中雅楽とは異なる文脈をもつ。祭礼や法会における雅楽は、地域社会の信仰、寺社の由緒、年中行事、芸能伝承と結びついており、宮内庁式部職楽部の伝承だけでは捉えきれない雅楽文化の広がりを示している[3][8]。
民間団体・教育研究機関
[編集]近現代には、民間の雅楽団体、大学、研究機関、復曲団体なども雅楽の演奏・研究・普及に関わっている。これらの活動には、古典雅楽の演奏、寺社行事への参加、教育機関での実習、古楽譜に基づく復曲、現代作品の上演などが含まれる[3][42]。
ただし、民間団体や教育研究機関による活動は一様ではない。宮内庁式部職楽部の古典伝承に近い演奏を志向するもの、寺社の祭礼伝承に関わるもの、古楽譜・古楽書に基づく研究的な復曲を行うもの、現代音楽として雅楽器を用いるものなどがある。そのため、記事中では、古典雅楽、寺社伝承、復曲、現代作品を区別して扱う必要がある[3]。
近現代の展開
[編集]近現代の雅楽は、宮中儀礼の古典伝承として保存される一方で、近代国家の儀礼音楽、教育・研究対象、復曲の対象、現代作品の素材としても展開してきた。明治維新後の雅楽局では、雅楽の整理とともに西洋音楽の伝習も行われ、雅楽伶人は近代日本の音楽制度形成にも関わった[34][38]。
近代以降の新作・祭典楽
[編集]明治以降、雅楽は近代国家の宮中儀礼に組み込まれるとともに、新たな儀礼や祭典に対応する楽曲も作られた。近代神社制度や国家的儀礼の整備とともに、雅楽器や雅楽的な旋律・形式を用いた祭典楽が作られ、神社祭祀や式典の場で用いられるようになった[38][36]。
こうした近代以降の楽曲は、古典雅楽と同じ伝承体系に属するものとしてではなく、近代の制度・儀礼・音楽教育の中で成立したものとして区別する必要がある。雅楽器を用いるからといって、すべてが古典雅楽と同じ性格をもつわけではない[3][38]。
復曲・復元研究
[編集]近現代には、古楽譜や楽書、絵巻、寺社資料、正倉院資料などをもとに、現在通常演奏されない曲目や楽器を復元しようとする試みが行われてきた。明治撰定譜に採られなかった曲、古譜の一部が残る曲、曲名のみが知られる曲などは、研究の対象となり、演奏可能な形へ再構成される場合がある[42][3]。
復曲は、現行伝承曲と同じものではなく、残された資料に基づいて過去の楽曲を再構成する作業である。したがって、復曲曲を現行雅楽の古典曲と同一視することはできない。一方で、復曲は、古代・中世の雅楽文化を考える手がかりを提供し、雅楽研究や演奏実践の幅を広げてきた[42]。
楽器についても、正倉院に伝わる古代楽器や古記録に基づいて、廃絶した楽器の復元が行われてきた。五絃琵琶、箜篌、方響、排簫、竽などは、現行雅楽では通常用いられないが、古代東アジアの音楽文化を理解するうえで重要な資料である[22][15]。
現代雅楽と国際的展開
[編集]20世紀以降、雅楽は現代音楽の素材としても用いられるようになった。雅楽器の音色、持続的な響き、ゆるやかな時間感覚、ヘテロフォニー的な合奏、舞や儀礼性は、現代作曲家にとって独自の表現資源となった。雅楽器を用いた新作、雅楽団体による委嘱作品、洋楽器との合奏作品なども作られている[3]。
一方で、現代雅楽は古典雅楽の保存とは別の領域である。古典伝承曲、復曲曲、近代以降の祭典楽、現代作曲家による新作は、それぞれ成立事情と演奏目的が異なる。雅楽記事では、これらを同一視せず、歴史的背景と伝承主体の違いを区別して説明する必要がある[3]。
宮内庁式部職楽部や民間団体による海外公演も行われ、雅楽は国際的にも日本の伝統芸能として紹介されてきた。海外では、雅楽は日本の宮廷音楽として理解されることが多いが、実際には宮中伝承、寺社伝承、復曲、現代作品など複数の層をもつ芸能である[41][3]。
東アジアにおける雅楽
[編集]「雅楽」に相当する宮廷音楽は、中国、朝鮮、ベトナムなど東アジア各地にも存在した。ただし、日本の雅楽は、これらの宮廷音楽と同一の伝承ではなく、日本列島において外来系楽舞と在来歌舞が受容・再編された独自の体系である[1]。
日本の雅楽は、中国大陸や朝鮮半島などから伝来した楽舞を大きな源流の一つとするが、平安時代以降、日本の宮廷社会の中で唐楽・高麗楽・国風歌舞・催馬楽・朗詠などとして整理され、独自の演奏様式を形成した[1][17]。そのため、東アジア各地の宮廷音楽との比較は重要である一方、単純に同一のものとして扱うことはできない。
中国
[編集]中国における雅楽は、礼楽思想に基づく宮廷儀礼音楽として発展した。古代中国では、音楽は政治秩序や礼制と結びつけて理解され、雅楽は正統な儀礼音楽として位置づけられた[1]。
日本の雅楽は、古代中国の雅楽そのものを保存したものではない。日本には、唐代を含む中国大陸の楽舞や楽理が伝来したが、それらは日本の宮廷儀礼、寺社の法会、貴族文化の中で受容・再編された。日本の唐楽は、中国唐代の楽舞を源流の一つとしながら、インド・林邑など南方系の楽舞も含む形で整理された[12][17]。
朝鮮
[編集]朝鮮半島では、雅楽に相当する宮廷音楽としてアアクが伝えられた。朝鮮のアアクは、中国宋代の雅楽を受容した宮廷祭祀音楽として発展し、儒教祭祀と深く結びついた[5]。
日本の高麗楽は、朝鮮半島系の楽舞をもとに日本で再編されたものであり、朝鮮のアアクとは同一ではない。日本では、百済楽、新羅楽、高麗楽などが古代に受容され、のちに右方の高麗楽として整理された。したがって、日本の高麗楽は朝鮮半島に由来する楽舞を含むが、朝鮮宮廷のアアクとは別個の伝承である[12][17]。
ベトナム
[編集]ベトナムには、宮廷音楽としてニャーニャックが伝えられた。ニャーニャックは、ベトナム王朝の宮廷儀礼と結びついた音楽であり、東アジア・東南アジアの宮廷音楽文化を考えるうえで重要な存在である[5]。
日本の雅楽とベトナムのニャーニャックは、ともに宮廷音楽としての性格をもつが、成立史、楽器編成、曲目、儀礼体系は異なる。比較対象として扱う場合には、東アジア・東南アジアに広がる宮廷音楽文化の一例として位置づける必要がある[5]。
文化財としての雅楽
[編集]宮内庁式部職楽部が伝承する雅楽は、国の重要無形文化財に指定されている。楽部の楽師は、雅楽の保持者として総合認定を受けており、管絃、舞楽、国風歌舞、催馬楽、朗詠などの伝承を担う[4]。
また、2009年(平成21年)にはGagakuとしてユネスコの無形文化遺産の代表一覧表に記載された[5]。これにより、雅楽は日本の宮廷芸能であると同時に、国際的にも保護・継承の対象となる無形文化遺産として位置づけられている。
文化財としての雅楽を考える際には、指定対象とされる宮内庁式部職楽部の伝承と、寺社・地域・民間団体・復曲・現代作品を区別する必要がある。広義の雅楽文化には多様な伝承や実践が含まれるが、重要無形文化財としての雅楽は、主として宮内庁式部職楽部が伝承する古典雅楽を対象としている[4][3]。
雅楽の継承には、古典曲の保存、楽器・装束・舞振りの伝承、後継者養成、古楽譜・楽書の研究、復曲、現代作品との区別など、複数の課題が関わる。文化財としての保護は、古典伝承を維持するための制度である一方、雅楽文化全体の広がりを理解するには、寺社・地域・研究・創作の各領域もあわせて見る必要がある[3]。
現在の上演と公開
[編集]雅楽は、現在も宮中儀式、宮内庁式部職楽部の公開演奏、寺社の祭礼・法会、地域行事、民間団体の演奏会などで上演されている。宮内庁式部職楽部は、宮中儀式における奏楽を担うほか、一般公開の演奏会や海外公演を通じて雅楽を紹介している[41][40]。
寺社では、春日大社の春日若宮おん祭、四天王寺の聖霊会、住吉大社の祭礼などにおいて、雅楽・舞楽が演奏される。こうした上演は、単なる鑑賞機会ではなく、祭礼や法会の次第と結びついた宗教的・地域的な伝承である[8][52]。
民間団体や教育機関による演奏会では、古典雅楽、復曲、現代作品、教育普及のための解説付き公演など、さまざまな形で雅楽が上演される。これらの公演は、雅楽を一般に紹介する機会であると同時に、演奏実践や研究成果を社会へ還元する場にもなっている[3]。
現在の上演を理解する際には、宮中儀式での奏楽、寺社の祭礼での奉納、公開演奏会での鑑賞、教育・研究目的の演奏、現代作品の上演を区別することが重要である。同じ雅楽器や曲名が用いられる場合でも、上演の目的や文脈によって意味は異なる[3]。
地域・寺社における主な上演・祭礼
[編集]雅楽・舞楽は、宮中儀式や宮内庁式部職楽部の公開演奏に限らず、各地の寺社の祭礼、年中行事、観月・七夕などの季節行事、地域の文化行事においても上演されている。以下は、各地で雅楽・舞楽・管絃が行われる主な祭礼・公開行事の例である。
- 中部地方
- 4月16日:東照宮祭前日祭 - 名古屋東照宮(愛知県名古屋市中区)。東照宮祭の前日には、神事の後、境内の舞台で雅楽・舞楽が奉納される[67][68]。
- 4月下旬から5月上旬:春の神楽祭 - 伊勢神宮(三重県伊勢市)。神宮では春と秋に神楽祭が行われ、内宮神苑の特設舞台で公開舞楽が行われる[69]。
- 5月1日:舞楽神事 - 熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)。熱田神宮では、神楽殿前庭に高舞台を設け、神職・巫子および雅楽奉仕団体の桐竹会により舞楽が奉納される[70]。
- 旧暦8月15日:仲秋管絃祭 - 静岡浅間神社(静岡県静岡市葵区)。静岡浅間神社の年中行事では、旧暦8月15日に仲秋管絃祭が掲げられている[71]。
- その他の近畿地方
- 4月22日:聖霊会 - 四天王寺(大阪市天王寺区)。四天王寺の聖霊会は、聖徳太子の命日に行われる法要で、四天王寺一山式衆の声明法要と天王寺楽所による舞楽が一体となった大法要として伝えられ、聖霊会の舞楽は国の重要無形民俗文化財に指定されている[76]。
- 5月5日:子供の日萬葉雅楽会 - 春日大社(奈良市)。春日大社萬葉植物園では、こどもの日に、浮舞台で雅楽が行われる[77]。
- 5月初卯日:卯之葉神事 - 住吉大社(大阪市住吉区)。住吉大社では、創立記念日を祝う卯之葉神事で、祭典の後に石舞台で舞楽が奉納される[78]。
- 6月10日:漏刻祭 - 近江神宮(滋賀県大津市)。近江神宮の年間祭典行事では、6月10日に漏刻祭が掲げられている[79]。
- 中秋日:観月祭 - 住吉大社(大阪市住吉区)。住吉大社の観月祭では、反橋上で和歌の披講に続き、住吉踊・舞楽が奉納される[80]。
- 9月下旬:雅楽の夕べ - 生田神社(兵庫県神戸市中央区)。生田神社の秋季大祭では、秋祭神賑行事として薪能・雅楽の夕べなどが行われる[81]。
- 11月3日:文化の日萬葉雅楽会 - 春日大社(奈良市)。春日大社では文化の日に、萬葉植物園の浮舞台で管絃・舞楽が奉納される[82]。
情報発信・国外での教育活動
[編集]雅楽に関する情報発信・研究紹介の媒体として、雅楽協議会の『雅楽だより』がある。同誌は2005年(平成17年)に創刊され、雅楽関係者へのインタビュー、行事情報、楽器・歴史・現代雅楽に関する記事などを掲載してきた[83]。また、スタンフォード大学音楽学部およびCCRMAなどが関与した雅楽研究サイトでは、管絃における楽器編成を中心とする解説が公開されている[84][85]。
日本国外でも、大学・研究機関を拠点とした雅楽の教育・演奏活動が行われている。コロンビア大学では、2006年(平成18年)9月に音楽学部で雅楽・邦楽のカリキュラムおよび演奏プログラムが開始され、雅楽史を扱う授業と合奏実習を組み合わせた、国外における継続的な雅楽教育の基盤が形成された[86]。同研究所は、同プログラムと連携して、ニューヨークおよびコロンビア大学で雅楽の公開演奏会や楽器ワークショップも行っている[87]。
脚注
[編集]- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 鳥居本 2007, pp. 3–13.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 東儀ほか 2008, pp. 26–29.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 塚原 2009, pp. 1–3.
- 1 2 3 4 5 6 文化庁 2026.
- 1 2 3 4 5 6 7 UNESCO 2026.
- 1 2 3 宮内庁三の丸尚蔵館 2005, pp. 4–5.
- 1 2 3 鳥居本 2007, pp. 34–41.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 鳥居本 2007, pp. 219–223.
- 1 2 3 4 5 鳥居本 2007, pp. 4–5.
- 1 2 鳥居本 2007, pp. 156–171.
- 1 2 3 4 5 6 東儀ほか 2008, pp. 27–29.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 鳥居本 2007, pp. 5–13.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 鳥居本 2007, pp. 224–250.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 鳥居本 2007, pp. 95–122.
- 1 2 3 4 5 6 7 宮内庁三の丸尚蔵館 2005, pp. 4–9.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 東儀ほか 2008, p. 29.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 東儀ほか 2008, pp. 18–23.
- ↑ 東儀ほか 2008, pp. 18–19.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 東儀ほか 2008, pp. 247–248.
- 1 2 鳥居本 2007, pp. 42–49.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 34–36.
- 1 2 3 鳥居本 2007, pp. 62–74.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 75–122.
- 1 2 3 鳥居本 2007, pp. 75–94.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 104–122.
- 1 2 3 4 5 鳥居本 2007, pp. 205–223.
- 1 2 3 山田 2024, pp. 20–99.
- 1 2 3 鳥居本 2007, pp. 205–213.
- 1 2 3 4 山田 2024, pp. 20–58.
- 1 2 山田 2024, pp. 59–99.
- 1 2 鳥居本 2007, pp. 221–223.
- 1 2 3 寺内 2023, pp. 1*-3*.
- ↑ 山田 2024, pp. 1–13.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 塚原 2009, pp. 42–61.
- ↑ 東儀ほか 2008, pp. 25–27.
- 1 2 3 4 5 塚原 2009, pp. 193–202.
- 1 2 3 塚原 2009, pp. 67–87.
- 1 2 3 4 塚原 2009, pp. 135–162.
- 1 2 3 4 5 6 東儀ほか 2008, pp. 247–250.
- 1 2 3 4 5 6 塚原 2009, pp. 222–231.
- 1 2 3 4 5 6 東儀ほか 2008, pp. 247–252.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 鳥居本 2007, pp. 251–270.
- 1 2 3 鳥居本 2007, pp. 123–204.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 123–141.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 123–131.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 132–136.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 137–141.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 164–171.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 172–181.
- 1 2 鳥居本 2007, pp. 142–155.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 85–94.
- 1 2 3 笠置 2017, pp. 37–41.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 50–61.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 190–204.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 196–204.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 鳥居本 2007, pp. 182–195.
- 1 2 3 鳥居本 2007, pp. 239–245.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 224–230.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 230–235.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 235–239.
- 1 2 鳥居本 2007, pp. 239–250.
- ↑ 鳥居本 2007, pp. 142–171.
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- ↑ “秋季大祭行事のご案内”. 生田神社. 生田神社 (2025年8月25日). 2026年5月2日閲覧。
- ↑ “11月3日(日・祝)文化の日 萬葉雅楽会”. 春日大社. 春日大社 (2024年10月28日). 2026年5月2日閲覧。
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- ↑ “Introduction to Gagaku”. Gagaku. Stanford University. 2026年5月2日閲覧。
- ↑ “About”. Gagaku. Stanford University. 2026年5月2日閲覧。
- ↑ “EMAJIN Project: Gagaku-Hōgaku at Columbia”. Institute for Medieval Japanese Studies. Institute for Medieval Japanese Studies. 2026年5月2日閲覧。
- ↑ “Gagaku & Hōgaku Concerts & Workshops”. Institute for Medieval Japanese Studies. Institute for Medieval Japanese Studies. 2026年5月2日閲覧。
参考文献
[編集]書籍・図録
[編集]- 鳥居本幸代『雅楽――時空を超えた遥かな調べ』春秋社、2007年。ISBN 978-4-393-93521-7。
- 東儀俊美ほか『宮内庁楽部 雅楽の正統』扶桑社、2008年。ISBN 978-4-594-05659-9。
- 宮内庁三の丸尚蔵館編『雅楽――伝統とその意匠美』宮内庁、2005年。
- 塚原康子『明治国家と雅楽:伝統の近代化/国楽の創成』有志舎、2009年。ISBN 978-4-903426-29-7。
- 山田淳平『近世の楽人集団と雅楽文化』吉川弘文館、2024年。ISBN 978-4-642-04363-2。
- 増本伎共子『雅楽入門』音楽之友社〈音楽選書〉、2000年。ISBN 4-276-37083-3。
論文
[編集]Web資料
[編集]関連項目
[編集]雅楽・宮廷音楽
[編集]楽種・演奏形式
[編集]楽器・音楽理論
[編集]東アジアの宮廷音楽
[編集]日本の伝統芸能
[編集]外部リンク
[編集]公的・文化財関係
[編集]解説・教材
[編集]映像資料
[編集]- 『雅楽』(1974年) - 科学映像館
- 神楽祭の公開舞楽 - 伊勢神宮